2.01.2017

ほったらかしおっさん

最近はあまり書く必要に迫られない。すこし前までは、毎日書かないと気分の変調に襲われるのだった。

いまは投資がおもしろい。私の増やしてきたカネが、増えたり、減ったり動いている。この動きはクルマのダッシュボードにおく踊るおもちゃのようである。つまりなんだかにぎやかで楽しい。私は我が子を見つめる母親のようにささいな値動きに喜ぶ。今日は何もしないで1万円儲けた。今日は1万円損した。

まあこんなことに時間と体力を奪われるのは無駄だという気がするが、ある程度資産があればそれを運用する必要にかられるわけで、私の場合はさっさと賃金労働の煉獄から抜けだしたいのだから、一億なり二億なりぽんぽんと稼ぎだしてあとは年間100万円くらいの配当金でだらだら過ごしたいと考えている。

投資ってそうとうくだらないし、みっともないことだと思う。ギャンブルと変わらない。私は投資に何か後ろめたさを感じる日本人の感覚は正しいと思う。株で10万円儲けたとしても私は散財してしまいそうだ。なにか悪いことをして稼いだという感覚がある。

仕事中なんども考えたのだがアシジのフランシスを肯定的に捉えるのはどうかと思う。われわれのほとんどは貧乏人だから、金持ちになることはよいことだと考えている。私も貧乏人だから、金持ちになってみたい、という強い憧れがある。

アシジのフランシスは生まれが超金持ちだから、貧乏人になりたかったのかもしれない。結局ないものねだりなのだ。だからお上品な令嬢たちに囲まれながら、おっさんに「お前はどの娘と結婚するんだい?」と問われたときに、「貧困!」と叫んで窓から飛びだすことができた。

歴史上の天才的な思想家の生い立ちを調べるとだいたいが金持ちや上流階級の家の出であって、ニーチェも立派な牧師の家庭で生まれているのである。たぶん生まれが金持ちだと、富の追求にそれほど関心がないのだと思う。富はあって当たりまえ。人生の充実ってそれと違うよね、と考えている。私の大学は金持ちが多かったがこの傾向はまちがいない。

貧乏でちゃんとした教育を受けていないと幸福=富と考えるひとがおおい。こういう人は大金を稼いでもどこか虚しい気もちになるものだと思う。

カネを稼いでも稼いでも満ち足りない。必要だったのは親の愛情でした、なんて悲劇みたいなパターンは意外と企業経営者のお偉いさんなんかに多いと思う。

幸福になるためにカネを稼いでいたのにいつしかそれ自体が目的になる。これが神経症的状態だ。カネを稼いだ。満ち足りない。どうしてだろう?とひとは考える。そこから愛情だとか社会性とか、あるいは宗教とか、もう少しマシな対象にうつるならいいけど、「まだ稼ぎ足りないからだ」と考えると、抜けだせなくなる。

「どこかにとどまりたい」というのが神経症の根本的な要求であり、ガスの元栓が気になるのも「家にとどまりたい」という気持ちのあらわれであったりする。受験の勉強をしていて書痙になるのは、じぶんが成長し成功することに対する抵抗のあらわれである。先の金満家の例でいえば、カネを稼ぐことにとどまりたいのである。

神経症とは親に愛されたいとか、「ゼロ点」「絶対点」としての「子宮」に戻りたいとか、そういう欲動のあらわれなのかもしれない。神経症はどこかに戻りたい、そこでとどまりたい、と考えているのだがもう戻るところがない。だからせめて反復行為によってとどまり続けるのかもしれない。

私も神経症がひどかったときは毎日のルーチンに拘泥していた。昼食は絶対に鯖と決めている時期があった(まあ今も朝は納豆と決めているのだが……)。あと他人の侵入が怖かったな。他人の視線に触れたり、他人の噂話が気になったりした。とにかく「他者」というのが「不確定」で恐ろしかったのだ。

いまは他者が自分をどう考えようがそれほど気にならないようになった。無論他人はいまでも不確定そのものだが、その不確定をどうにかしようとしても何にもならないことを学習した。他人とは地獄であるとサルトルが言ったが、私にとっては「カオス」である。地獄ならまだ「天国」の矛盾対立になるのでありがたいのだが、そういう矛盾対立すらないものだ。

さらに言ってしまえば自己すら「カオス」であり、私はもう自分のことをほったらかしにすることにした。私にとって、市場も「カオス」であり、もう株価のささいな値動きはどうでもよいので、とりあえずほったらかしにしておいて、高くなったら売ればいいや、と考えている。「高くなったら売る」という法則にしたがえば、まず負けはないはずである……。

どうにもならないものごとをどうにもならないと諦めることが、大人になるということだろう。そして神経症の治療にもつながるのである。

「自分をほったらかしに」ということで、さいきんはフロイトだのマルクスを読むことをがんばることをやめて(なぜって私は学者でもなんでもないのだから)、ゲッツ板谷のヤンキー小説なんかを読んでいる。いや、ゲッツ板谷おもしろいよ。ほんと。私も昔はヤンキーに憧れたものだった。
しかしいちばん大きい、しかも意外な影響を与えるのは、まさに「娯楽」のために「快楽だけを目的として」読むものだ、と皆をびっくりさせるようなことを私は言いたいのである。知らぬ間にやすやすと感化を及ぼすのは、骨折らずに読む本だ。(文芸批評論/T. S. エリオット)
なんでも咀嚼して栄養にしよう。







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