2.11.2017

愛するということ

愛こそすべて……経済の基軸通貨はカネでも、人間世界の基軸通貨は愛ですよ……。

いつの間にこんなみっともないことを口走るようになったのか知らないが、最近はこう思う。最近というか、昨晩E.フロムを読んでいて頭にガン、ときた^^;

私には「愛する能力」が欠如している。たぶん、多くのひとが子どものうちに獲得する能力だと思うのだが、私はそれがないまま大人になってしまった。大人になってから愛する能力を獲得するひともいるだろうけど、英語学習と同じように、子どもの方がずっと易しいに違いない。

なにせ、大人になってしまったおっさんは、これまで「愛なんてないよ」というドグマを叩き込まれてきたので、ほら、そこに愛があるでしょ、なんて言われても、私には見えないのである。

この世に郵便ポストは山ほどあるのだが、4,5歳のころに「ママ、あれなに?」と問い、「おかしな子だね、そんなものはないよ」とそのたびに存在を否定されたら、いつの間にか「ないもの」になってしまうだろう。江戸時代の民衆には、「黒船が見えなかった」、つまり認知不可能だったという(調べたら、「船」として認知ができなかったらしい。「見えなかった」のはマゼランがきたときのフエゴ島の人々)。

愛を損なうと、人生の意義が見いだせなくなる。実存の危機という奴である。それでなんらかの依拠できるものを探そうとする。それはできるだけ、手の届かないものが良い……。手が届いたら、そこで終わってしまう。それに、だれでも簡単に手に入るものであれば、それがたいして価値のないものだということがわかってしまう……。

そこでひとびとが追い求めるものは、カネであったり、名誉だったり、あるいは神だったりするのだが……。

愛が欠乏するということは、エネルギーの暴走でもあるのだろう。愛を知るひとは、正常な車輪を持っていて、目的にまっすぐである。こういうひとは、自然で、無駄がなく生きる。愛の欠けるひとは、片方の車輪が小さいので、ぐるぐる傷つきながら回っていく。それがかえって芸術的な大成や、莫大な富をもたらしたりするのだが……。しかしそれが幸福であるかどうか?はだれもしらない。悲劇とは、だれもが自分が正しいと思うことをなして、結果的に破滅する物語のことだ。迂遠するだけで人生が終わってはね。

私の車輪も片側がゆがんでいるのであって、作家になりたいとか、世界旅行がしたいとか、二億円稼ぎたいとか、そういうことを考えている。それでもう30歳近いというのに、愛することをできずに生きている。

世の中には、しっかりと他人を愛することができるひとがいて、そういうひとは品性や富や学に欠けるとしても(不思議とそういうひとが多い)、多くの他のひとよりも、一緒にいて楽しいし、大切にしたいと思う。そういうひとは、私のような人間も愛してくれるのであった。Sがそうだったし、職場のあるおばちゃんも私を愛してくれていると思う。

愛することのできないおじさんだけれども、そもそも愛する能力が遺伝的に欠如しているわけがなく、それは学習された認知のゆがみであるはずである。ひとは歩く能力を持っているように、愛する能力をもって生まれているはずである。

「愛する」ことを意志すると、途端に神経症的な愛になる。しゃちこばった、不快な愛情表現になる。それは力が入っているからである。

結局のところ、ひとがすべきことは「自然にかえる」ということなのだと思う。外的なドグマをとりはらって、自分をしっかりと見つめてみる。すると、本当は自分が他者を愛したい、と思っていることがわかってくるはずである。それこそが愛する能力である。

いたずらに物を贈ったり、束縛したり、褒めたり、ということが愛なのではない。



人間は愛することができるのだ、ということをぶん殴って教えてくれたのが半年前のSであった。ただ、最近はまた忘れかけていた。愛の能力は、簡単に抑圧されてしまうものであるらしく……。
この種の男たちは、女性たちの気を引こうとするときにはとても優しく魅力的になり、うまく女性の気を引くことができた後でもその態度は変わらない。しかし彼らの女性に対する関係は(実は他のすべての人にたいする関係も同じだが)いつまでたっても表面的で無責任である。彼らの目的は愛されることであって、愛することではない。ふつうこのタイプの男性には、かなりの虚栄心と、多かれ少なかれ内に隠された、誇大妄想の傾向がある。(愛するということ/E.フロム)
これが私であります^^;
もっとも頻繁に見受けられる性的障害――女性の冷感症と、男性の心理的インポテンツ――の研究からあきらかになることは、そうした障害の原因は、正しい性的テクニックを知らないことにあるのではなく、愛することをできなくするような抑制にある、ということである。そうした障害のそこには、異性に対する恐怖あるいは憎悪があり、そのために、完全に没頭するとか、自発的に行動するとか、直接的な肉体的接触において性的パートナーを信頼するといったことができないのである。(同上)
恥ずかしながら、これも私だ。女性嫌悪、恐怖の傾向があると思われる^^; 神経症者のほとんどのひとには性的障害が見られるらしい。
誰かを愛するというのは、たんなる激しい感情などではないのです。それは決意であり、決断であり、そして約束なのです。(同上)
愛することは、高度に知的な本能である、と思う。「恋は盲目」というけど、開かれた目でなければ愛することはできない。すこしでもバランスを欠いたらおしまいなのだろう。愛のバランス感覚を養わなければならない。はじめは、傷つくだろうけど……。

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