2.03.2017

槍をかつごう

デカルト的な理性主義に立脚する限り幸福はほど遠いのだと思う。我考える、ゆえに我あり……これはまあいいにしても、「我考える、ゆえに我為す」となると、途端に神経症的になる。

「歩く」という行為にしても、理性的なものではない。膝をまげて、つま先を前進し、かかとから着地しよう……と考えるわけではない。試みにそのように考えながら歩こうとしても、うまくいかないことがわかるだろう。

高度に熟達した技術も同様であり、スポーツ、音楽にしても、理性はどこかに置いておかなければ邪魔で仕方がない。日常の仕事においてもそうである。なにかに没頭しているときがもっとも楽であり、もっとも充実し、もっとも大きな成果をあげることができる。理性の王国である科学においても、革新的ひらめきは理論の組み立てではなく、「どこからかやってくる」ものである。

神経症者は往々にして理性主義である。AゆえにBであるといった硬直した思考をしている。神経症者は硬直しており、緊張している。まるでクソ真面目な学級委員であって、ちょっとしたつまづきに耐えきれず自殺したり、しょうもない誘惑に耽溺し人生を台無しにしたり、あるいはクソマジメな学級委員のまま過ごし、「人生とは何なのか」と煩悶したりする。

それでは理性とは何なのだろうか?こんな邪魔くさいものがなぜわれわれに付与されたのだろうか。われわれはほとんどが全員、理性的であることを強制されてきた。学校において、理性的であれば頭をなでられ、非理性的であれば殴られた。そうしてわれわれは理性を体得した。この「贈り物」は何なのだろうか?

わかっている。国家はもう戦争に負けたくないのだ。われわれは理性の極北であるところの原爆に打ちのめされた。たとえアフリカの少数民族が先進国の労働者よりも数倍幸福だろうと、われわれは理性を信奉しなければならない。

理性は強いのである。軍事的に強いし、政治的に強い。ヘゲモニーである。この世界は、暴力によって成り立っている。理性は最強の暴力だから、みんな憧れるのだ。そうして世界はまるっと飲み込まれて、世界経済戦争を繰り広げている。だから田舎でのんびり暮らしている農夫とか、槍をかついでいる少数民族の方がしょうもない仕事をしているわれわれよりずっと幸せなのだと思う。

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