2.07.2017

ゲッツ板谷に対する感情

ゲッツ板谷の本を読みふけっている昨今である。「ワルボロ」、「メタボロ」、「ズタボロ」と決して短くない三部作をさくさくっと読んでしまった。おもしろかった。

ゲッツ板谷をはじめて読んだのは大学生のときで、タイへ行く前に読んだ「タイ怪人紀行」にドハマリした。そしてインドへ行ったときに、日本人がよく出入りする安宿だったと思うが、書庫に「インド怪人紀行」がおいてあったので、そこでも半日かけて読んでしまった。現地で仲良くなった自称上智大生に渡したら、ゲラゲラ笑いながら読んでいて、彼も半日を潰していた。

それで、本の中に書いてあった「一回500円の娼婦館」にぜひ行こうと言い出したので、私も承諾した。別に性欲の問題ではなく、怖いもの見たさだった。しかしこれは実現しなかった。というのも、予定の日に質の悪い大麻を吸い、彼と一緒にグロッキーになってしまったからである。

まあそんなふうにして、「世の中にこんなにおもしろい本があるのか」と思えるのがゲッツ板谷の本だった。

ゲッツ熱がなぜぶりかえしたかというと、大阪のブックオフで西原理恵子の漫画を読んで没頭し、まずは西原に惚れたのであった。そして西原の夫が「怪人紀行」でのゲッツ板谷の相棒であるカモちゃんということを知り(そしてカモちゃんが亡くなったこともそのとき知ったのだが)、ゲッツ板谷って何してるんだろ?と思ったのがきっかけである。



ゲッツ板谷は強面の風貌でわかるとおり、ヤンキー上がり、というかヤクザ上がりなのだが、彼の文章がどうしようもなく好きなのは、彼が真摯であり、マジメだからである。おもしろい作品を作ろうと頭を死ぬほどひねっていることがわかるのである。だから私は、たとえ作品がつまらなくても、板ちゃんが好きだから楽しんで読めるのである。

ゲッツ板谷の小説は、刹那的である。ふつう作家であれば抱くような、「後世に残る作品をつくろう」というような姿勢が見えてこない。なんというか、ありのままの感じが好きだ。おそらく数十年後には、ゲッツ板谷の作品はだれも読まないのではないかな、と思っている。そして彼もそれをたいして望んでいないだろうなと思う。

文章家というのは、ふつう、世の中に対する怨恨とか、疎外感を抱いている。基本的には「いじめられっ子」が文章家になるのであり、社会不適合者とか、不細工とか、親の虐待を受けたとか、病弱、精神異常、そういうある種の「欠陥」が、ひとを書くことに駆りたてる。いや、そうではない例もたくさんあるのだが、現代に残る名作を書いた古典作家は(科学者、哲学者、音楽家、画家にしても)、だいたい上の条件があてはまる……。

ゲッツ板谷は、そういう世の中に対する怨恨やなんかが見えてこなくて、家族愛の強い、友人を大切にするまっとうな人間ということがわかる。彼は人間として強いのだと思う。だから作品からは、パトスの昂じたような狂気のようなものが見えてこない。ひたすら素直で、直截である。じゃあそれがよくないのかというと、そんなことはない。

なんというか、ゲッツ板谷は幸福な物書きだな、と思うのである。たぶん歴史に残る人間というのはたいていが不幸で、ゲッツ板谷は幸福のまま死んでいくのだろうな、と私は思う。

なんだかまとまりがなくなってきた。チャーハンを食べすぎて眠い……。

坊主(というかスキンヘッド)でサングラスの作家といえば丸山健二がいるのだが、ゲッツ板谷とは正反対の作家だと私は勝手に思っている。つまり孤独な、不幸な、そして偉大な作品を作るタイプの。


あと、フーコーもゲッツ板谷とは正反対の……まあどうでもいいのだが……。



作家っていろんな人がいるよね、という話でした。

1 件のコメント:

  1. 最後の禿げつながりに思わず吹いてしまいました(笑)

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