2.14.2017

奴隷制を考える

今日は仕事が終わると図書館へ行き、コンラート・ローレンツの「攻撃」を読んでいた。
種内攻撃ということをまったく知らず、一生の間ゆるぎない群れをなしてまとまっている動物たちがいる。そういう動物は、それぞれの個体が持続的友情を結び、兄弟のように親しいまとまりを形づくるように、あらかじめきまっているのだとお考えかもしれない。だがこのような個体同士のつながりは、そうした平和な群れをなす動物に限って絶対に見られず、かれらのまとまりはきまって全くだれでもいい無名のものの寄り集まりなのだ。個体と個体の結びつき、個体間の友情が見られるのは、種内攻撃の高度に発達した動物の場合だけであり、それどころか、このような結びつきは攻撃的な種類の動物ほど堅いのである。……ダンテも「平和なき動物」といっているように、あらゆる哺乳類の中でももっとも攻撃的だということになっているオオカミは、友に対してもっとも忠実な動物だ。
平和な群れ=2chなどの匿名掲示板といえるのかもしれない。相手はだれでもいい。付かず離れずの関係が良い。相手は絶対に自分を傷つけない。なぜって、相手も自分も無名の一人だからである。

反対にヤンキーなどの攻撃性の高い人々においては、個体間の友情が堅固である。地元愛とか、家族愛とか、いつまで経っても「中学の友達」を大事にする彼らは、たしかにオオカミ的ではある。

私はというと、学校を変わるたびに友人を切り離してきたな。まあ、いまでも会いたいと思う人はたくさんいるけど。
種内攻撃の歴史は、個体間の友情や愛よりも、数百万年も古い。地質学の長いいくつかの時期を通じて、かならずや、とてつもなくたちの悪い攻撃的な動物がいた。今日みられる爬虫類はほぼすべてそうであり、先史時代のかれらがもう少しましだったとは考えられない。ところが個体同士のつながりがあるとわかっているものは甲殻魚類、鳥類、哺乳類だけで、したがって個体同士のきずなは中生代後期に出現した群れだけにみられるのだということになる。したがって、種内攻撃は相手役である愛をともなわないことがあるらしいが、逆に攻撃性のない愛は存在しないのだ。
冷血動物の後進性。愛憎、Love & Hate。

この本はとても示唆に富んでておもしろい。科学者であっても哲学や文学に造詣が深いとおもしろい読み物になる。つまらない科学者はたいてい分業された工員のように単純なことしかできないのである。



さいきん奴隷制ってどうなのかなと考えている。奴隷制を見直すべきなのではないか、とアリストテレスを読んで思った。アリストテレスは奴隷制を自然なものと考えている。肉体労働に向いた人間と知的な生産に向いた人間がいるのであって、後者が前者を支配することは正しいことだとしている。

私もこれは正しいと思う。というか、現代資本主義はその態度でこれを肯定している。高学歴の本社勤務が子会社のFラン大卒の社員を支配している。そしてFラン社員は、高卒のドカチンを支配する。

アリストテレスと現代社会の違いは、奴隷が働いてくれる間に主人は知的な営みをせよ、というのがアリストテレスの教えなのだが、現代では一見主人的な立場に見える人間も、なんらかの形で奴隷であるということである。大企業の社長も会長やオーナーの奴隷であり、会長も大株主の奴隷である。上にのべた高学歴の本社勤務なんて、アリストテレスに言わせれば思考を欠いた奴隷に過ぎないだろう。

ただ現代においても、働かずして稼ぐことができている存在があり、それが「資本家」である。資本家はアリストテレスの言う主人に近い。マルクスの時代においては、工場長は少なくとも経営のための労務をこなしていたのだが、現代富裕層はなにもせずに富を得ている。このことをピケティが指摘した。

現実にこの「自由人」たちが、政治的に参画し、世界を動かしているのかもしれない。

私は思うのだが、アリストテレスの奴隷制を否定しておきながら、現代資本主義のエセ民主主義を礼賛する行為は、一種の狂気であると思う。現代は古代ギリシャよりずっとひどい奴隷制であり、あまりに奴隷が増えすぎたため、だれも自分を奴隷とは思わなくなった。99.9%は奴隷ですよ。私も奴隷だけど。

奴隷制が表向き廃止されるのは、主人が力を持ちすぎるからだろう。奴隷が労働をこなし、主人が知的な能力を高める。またより多くの奴隷を買うことで、資本力や政治力を高める。そうすると、支配者層の立場は危うくなる。

現代資本主義の労働漬けのライフスタイルは、人々から力を奪うのに適している。生かさず殺さず、「ビジネス・パーソン」とカタカナにするとかっこいいように見えるが、結局は首輪のついた奴隷にすぎない。

最近になって国内で労働環境を整備しようという試みが話題になっている。これは奴隷の解放になるのか、あるいは奴隷制をより強固にするのか。現代の支配構造は、死の支配から生の支配へ転換した、と指摘したのがフーコーである。フーコーによれば以前の権力者は反逆者や犯罪者の処刑や、暴力によってひとびとを支配していたのが、近代以降は生かす方向、たとえば福祉や医療によって救済することによってひとびとを支配する。わかりやすい例で言えば、鬱病になった人間を「治療」し職場復帰させることによって、支配する。

この転換を日本社会も遂げようとしているのであり、支配構造の強化に貢献するのだと思う。

ほんと、世の中ってぼーっとしてたら絡めとられて養分にされてしまうなあ、と思うおじさんであった。

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