5.20.2017

サイコパスの恐ろしさは当事者でなければわからない

小浜逸郎氏がサイコパスについて書いていたが(「サイコパスは生まれつきか」)、マニアックにサイコパスについて調べたことのある私はがっかりしたというか、納得できない部分が多々。

いちばんの問題点は、「あいつはサイコパスだから~」とラベリングすることを倫理的に問題だとしているところ。

逆である。

「あいつはサイコパスだからしょうがない」とラベリングしなければ、サイコパスに取り込まれる恐れがある。「あいつはサイコパスだけど、少しは良心があるだろう。我々と同じ人間なのだから」と思うことこそが、健常者がサイコパスと対峙するときの最大の弱点になるのである。

なぜか。サイコパスには良心がないから、何をやっても後悔をしない。嘘をついても、金を奪っても、地位を簒奪しても、平気な顔をしている。そこで被害者は自問することになる。サイコパスはなぜ自分を苦しめるのか?彼は自分を苦しめてなおそれが当然かのように、涼しい顔をしているのか?

そこであえて、「彼はサイコパスだからしょうがない」と思わなければならない。つまり自分には非がなく、彼に非があると認めること。彼はそういう人間で、世に害意を撒き散らす存在なのだと決めつけてしまうこと。

このラベリングがなければ、サイコパスに苦しめられる自分は「苦しめられて当然の存在だ」と思うようになる。「自分に落ち度があるからサイコパスは私をいじめるのだ」。この自罰的な反省的な態度はサイコパスにとって好都合で、ますます便利な道具のできあがりというわけだ。

より上等に道具化した被害者は、サイコパスの要求に無条件に従ったり、サイコパスから良心を引きだそうと無駄な試みをするようになり、ドツボに嵌まることになる。そうして最終的に、鬱病や破産、自殺などに追い込められる。(無論ほとんどの場合、合法的に)

だからあえて言い切ってしまうが、ラベリングこそサイコパスに対する有効な防御策なのである。「彼は私と同じ人間ではない」と諦めること。小浜氏はサイコパスに対するラベリングを、黒人やユダヤ人の差別などと同一視しているが、実情はまるで異なる。良心を持つ健常者とサイコパスの隔たりは、人種的隔たりよりはるかに大きい。

ラベリングを指して「仲間はずれはよくない」とする小浜氏には、現にサイコパスに苦しめられている人々に対する視点がまるきり欠如している。被害者に向かって鬱になれと言っているようなものだ。(そもそも、良心を持たない・倫理観の欠如したサイコパスを倫理的枠組みから追放することのどこが不適当なのだろうか?)

もっともこのラベリングという対抗手段は、サイコパスと深く関わりなんたるかを理解した被害者に許される行為であって、外野の健常者がおもしろがって「あいつはサイコパスだ!」と叫ぶ魔女狩りのような流れになることは当然危惧すべきだと思う。

サイコパスのいま

法的に問題ない、あるいはハラスメントなどの軽微な犯罪であっても、サイコパスの「実質的な被害者」が存在することは事実だ。これらの被害者はほとんど泣き寝入りである。(通常のサイコパスは、証拠を残したり逮捕されるほど愚かではない)

現代医学では、サイコパスは犯罪を侵さない限り「健常者」として扱われる。社会適応に成功しているからである。鬱病患者のように憂鬱で出社できなかったり、神経症のようにガスの元栓が気になって勤務中に帰ってしまうということがない。それどころか、仕事に意欲的で、出世や金稼ぎに成功することも多い(無論、他者を蹴落としてだが)。

だからこれまでサイコパスの研究は進んでこなかった。資本主義社会に優れて適応しているとさえ言える彼ら「健常者」を病者として扱うことは、一種のタブーですらあった。

ある精神科医はサイコパスをさして「人を鬱に陥れる達人」と呼んでおり、治療した鬱病患者の影にはこのような人物の姿があらわれることが多々あるようである。この「合法的な悪魔」に対してどう接するべきか。社会はどのように介入すべきなのか。そういう深い視点が小浜氏の議論には何もなく、指摘は表層的で外縁的なところで留まっている。

じゃー深層的な議論とはどのようなものか?一例をあげると以下の雑誌の議論のようなものである。
宮崎哲弥 鑑定が正常に行われたとしても、サイコパス、反社会的人格障害をどう扱うかという問題が浮かび上がってきます。おおまかに言えば、彼らの人権を尊重して危険承知で一般市民と同じ生活をさせるか、あるいは彼らの人権を蹂躙して隔離してでも安全な社会を守るか、という議論に二分されるでしょう。ただ、完全に彼らを放置するわけには行かないので、何らかのセーフティネットをかけておく必要が生じます。  
岩波明 イギリスではサイコパス患者にも精神病患者と同等の治療を施していますが、「多少は改善されそうだ」「いや、無意味だ」という論争が常にあり、いまだに結論は出ていないのですが、私見ではおそらくサイコパスが治癒する見込みは極めて薄いと思われます。現実的な選択肢を考えた場合、一定期間の隔離もやむを得ないのではないでしょうか。去勢、つまりホルモン抑制剤を注射するのも一時的な効果はあると思います。(「諸君!」2006年7月号より)
10年前の意見の方がはるかに踏み込んでいて現実的である(議論の深さを例示しているのであって、サイコパスを隔離しろと言っているのではない)。

まあ体験しないとわからないよね

もっとも、サイコパスがどのような存在かは、サイコパスに直接関わった人間でなければわからないことで、臨床医ではなく(たぶん)被害者にもなったことのない小浜氏には実感できないのは当然とも思われる。

小浜氏の言う「サイコパス」とは、テレビや新聞を賑わす「サイコな殺人」をする例外的なサイコパスのことのようで、一般生活を営む通常のサイコパスについてはほとんど言及がない。「百聞は一見にしかず」とはまさにこのことで、小浜氏の描くサイコパス像は人魚や河童のように現実味がない。テレビや書籍からの情報だけで、肉的な体験が感じられない。ポリティカル・コレクトネスだ進歩心理学だと話を広げているが、肝心のサイコパス像があいまいなので空疎である。

サイコパスの存在を体験するとしないとでは人間観がまるきり変わるものである。差別はよくないとか、そう生っちょろいことは言ってられないのである。食われるのである。笑

結論を言えば、小浜氏の小論は、サイコパスを語っているようでサイコパスを語っていないと私には思われた。

あと一点、指摘したいことがある。幼少から症状が見られ、自然治癒・治療改善例が一例もないサイコパスを、「先天的障害の蓋然性が高い」とすることは、極めて自然な判断だ、としか言いようがない。

余談:あるカウンセラーは、サイコパスの女性から良心を引きだそうと数十年間努力を続けたが、何の変化も訪れずに徒労に終わったそうだ。カウンセリングに通おうとするサイコパスはほとんど稀だが、彼女の場合は「著名なカウンセラーを打ち負かす私」という形で自己愛を満たすためにカウンセリングを利用していたようである。

サイコパスについて詳細に知りたい方は書抜があるのでどうぞ

1 件のコメント:

  1. サイコパスの幼生2017/05/22 13:35

    他者が心を持っていることについての証明ができれば、私は他者を自己と等価の存在と認めてもいい。(渋々だが)その証明がない限り、私は他者をタダの機械と考え、自分の人間性に従って、蹂躙ないしは利用するだろう。多くの人々が互いの「心」を所与と見做しているのは、他者に心があるかどうかを絶対知りえない、という絶対的孤独から逃避するために発達させた妄想だ。

    『他者問題』はサイコパスを研究するにあたって、避けられない命題だ。
    また、一部のサイコパスは、この命題の非証明性を、自己の行動の正当性の根拠としている。

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