5.12.2017

enjoy NEETlife

仕事を辞めたら毎日が楽しい。

やっぱり資本主義の産業生活は無理がある。二年間我慢したけどもうアホらしくって辞めた。

アルチュセールはマルクスに傾倒した後「なぜ共産主義革命は起きないのか?大衆は搾取を受け入れるのか?資本主義強すぎワロタw」という疑問を起点に国家イデオロギー装置論を組み立てた。

つまり国家のイデオロギー装置であるところの学校や家族、書籍やテレビなどメディアが支配―隷属の関係、「資本主義的搾取諸関係の再生産」に貢献している、ということを暴いたのだ。

これはショッキングな指摘ではあったけど、私はそんなに難しく考えなくてもよいと思う。結局のところ、大衆はアホでつねに欺かれる、ということだ。だからもう、彼ら大衆は搾取されるのが好きなのだ。なにも破滅願望ではなくって、自然的積極的に隷属を志向する、ということがありうる。

アリストテレスは「奴隷は生まれつき奴隷なのだから、奴隷制は自然なことだよ」と説いたが、私も同じ考えだ。たぶん世の中の10%くらいが生まれつきの貴族で、残りは奴隷に向いている。倫理的にどうこうではなく、「そういうふうにできている」のだ。現実として。

奴隷制を肯定すると、なぜかracist!とか石を投げられるのだが、ちょっと待ってほしい。白人があまりにもバカな奴隷制(砂糖奴隷、煙草奴隷、綿花奴隷)で黒人たちを搾取しまくったから、現代人は奴隷制に過剰な拒否反応を起こしている。あれはたしかに人類史上最悪に非道な奴隷制であった。日本の社畜以上に搾取されていたのは彼らくらいのものだが、黒人奴隷は資本主義的搾取の原型であって、古典的奴隷制とはほとんど別個だ。

話を戻すと、アルチュセールはカトリック的平等観に毒されているように思われる。つまり人間は本来平等なはずが、資本主義によって縦構造が構築されていると彼は考えたのだが、そもそも人間はほんとうに平等なのか?また平等になるべきなのか?

カトリシズムの平等観というのは「人は皆生まれつき罪を背負っている」という辛気臭いネガティブな平等観で、ニーチェに言わせれば奴隷道徳的、出る杭を打つようなルサンチマン的な教義だ。

しかし背の高い奴がいれば低いやつがいる、美しい奴がいればブスがいる、賢い奴がいれば愚かな奴もいる。これは生まれつきの要素もあって、人が生まれながらに平等とは考えにくい。

私の考えはシンプルに言ってしまえば、人間は生まれつき平等なんかではなく、本能的無意識的に縦社会的であり、生まれつき高位にあるべき存在と低位にあるべき存在がある、というものだ(そして低位にあるべき人間は自然状態において高位の人間にルサンチマン的感情を抱かず、被支配的生活にある程度満足してしまう)。

無理に貴族的人間をずりさげて奴隷的人間を持ち上げる平等化のプロセスは必要はなくって、貴族的人間が上に立ち、奴隷的人間は彼らに付き従えばいいのだと思う。それがいちばん社会がうまく行く方法だろう。

現今の社会は最悪の状態で、奴隷的人間が上位に立って貴族的人間が下層に置かれている。ニーチェの言う奴隷革命後の状態だ。この「逆立ちした世界」よりは、共産主義的平等社会がはるかにましだとは思う。

なんだか話が飛びすぎて何が書きたいのかわからなくなった、またdiarrheaをしてしまった気分だ。支配―隷従の視点で世の中を見るのが楽しいのである。ドラクエ6の夢世界から現実世界に落ちたようなスリリングな転落だ。

0 件のコメント:

コメントを投稿