6.27.2017

労働はイカれている

ニートになって一ヶ月になる。オメデトウ。

これまで私は自分のことをマージナル・マン=境界人だと思っていた。それはコップのフチ子さん的な絶妙な均衡だったのだが、転落!転落である。今は完全に異界の人となってしまった。ときどき、世間のひとびととの価値観の乖離に驚くことがある。少し沖に出過ぎたのかもしれない。でも、もう遅いのだ。

私は働くことが嫌いなのではないよ。むしろ好きだと思う。ただ誰かのパシリになるのが嫌なだけで。つまり精神的には高貴なおじさんなのだと思う。つまりは、潔癖。
主人の言説の時代には、能力のあるものは、他者の欲望に奉仕することを恥じた(例外はある。だが神経症者は一般的に大他者の道具となることに堪えられない。彼は他者に食い物にされていると感じる)。(何処かのブログより)
今日は「風来のシレン」というゲームを6時間ばかり。専門用語になって申し訳ないのだが、「掛け軸裏」をクリアし、今は「食神」を攻略しているところだ。まったく楽しい。

楽しいが……これではご飯が食べていけないというのも峻厳な事実である。




かつて労働と遊びは区別されていなかった。人はわざわざ遊ぶ必要はなかった。日々の労働が遊びのようなものだったからである。狩猟をし、釣りをし、山菜を摘み、栽培し、焼き物を造り、編み物をする。ときに政治があり、呪術と祈祷があり、ときに戦争があった。それもお祭りのようなものだったろう。

私たちは今日、こういった営みを剥奪されている。そういったことは「趣味」とされ、「暇な時間にやれ」と言われる。(暇な時間など、ほとんどないのだが)

私たちの手からは石斧も竹竿も剥奪され、代わりにモニターとキーボードが与えられている。現代では生活の営みは破壊され、その欠片の中から労働と遊びが区別された。

遊びが許されるのは人間性の回復のためであり、発狂を免れるためだが、それが許される理由というのも労働効率をあげるためである。どんなバカな経営者でも労働者を24時間も働かせないが、それが労働者への「慈悲」ではないのと同じである。

私たちは労働によって生活の営みから解放されたが、同時に奇妙な分裂を生みだすことになった。労働の時間においては我々は自己をどこかへ追放し、遊びの時間には自己を呼び戻すようになった。つまり私たちは労働の時間において、自らを他者に貸し出す必要が生じたのである。

この分裂が営みの開裂をますます加速化させた。つまり労働はますます退屈にやるせないものになり、遊びはずっと刺激的で快適になったのである(偽物の釣り、偽物の戦争、偽物のセックス)。まるで芸術アートと技術テクネーが近縁だったにもかかわらずいまではよそよそしいように、遊びと労働も我々にはまったく無関係な存在に感じられるのである。

営みが解体され、遊びと労働が誕生した。そのときおそらく苦しみや懐疑といったものが生まれ、果ては現代まで続く「理性」が誕生したのだろう。私はそのように考えている。歴史を学ぶほど、私は古代へのあこがれを強くする。



労働と遊びがひとつだったとき、人間は満ち足りていたのである。彼ら古代人は私たちが考えているよりずっと精神的に落ちついており、大人びていた。彼らは現代人がどれだけ哲学を学んでも到達できないくらい、生と死について達観しており、高次の認識を持っていた。彼らには理性というものが乏しかったが、それだけに自然と自己とが未分化であり、したがって自然の叡智をほとんどすべて身につけていたのである。

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