7.13.2017

おっさんの系譜

今日は市立図書館へ行って先祖のことを調べていた。

郷土史を開くと私の何代も前の先祖が載っている。といっても、ほとんど無名の存在であり、googleで検索しても数件しか出てこない。いちおう思想家、教育家ということになる。

天保の時代、十九世紀前半に活躍した。カメラなどない時代だから肖像画ということになるのだが、画家の作風なのか、そういう人物なのか、ずいぶん飄々としているように見える。


ちなみに私はこんな顔ではない。

原画は実家に飾られているのだが、あぐらをかいてだいぶラフな感じである。藩に重用されたとか、財を成した……そういう風格はない。老賢者といった具合。

思想は啓蒙主義的(日本もその頃すでに「近代化」されていたのである)で、勤勉を説いたのだという。勤勉……いまのニートな私をどう思っているのだろうか^^;

自分の血筋がわかるというのは、なんとなくありがたいことである。特に私のように両親ともB層だと、将来に絶望しかねない……。


「労働と思想」という本を買ってみた。

日本のさまざまな専門家が、グラムシやラカン、ほかジジェクやルソー、シェイクスピアなど多様な思想家を通して「労働」を読み解く、という本。

パラパラと読んでみたが、私には佐々木隆治氏のマルクスの項がもっとも鮮烈に響いてきた。

労働者が自分の労働力にたいしてそれを価値とするように関わり、労働力を商品として販売するだけでは、まだ賃労働とはならない。それにくわえ、賃労働者が資本家の指揮の下に入り、自分の労働行為を資本の機能として遂行しなければならない。そのような特定の形態の労働こそが、労働力の価値以上の価値、すなわち剰余価値を生み出し、自己増殖する価値としての資本の運動を成立させるのである。
それゆえ、ここで問題になるのは、たんなる所有の問題ではない。つまり、無所有のプロレタリアートと手段を排他的に所有する資本家が存在するだけではまだ賃労働は可能ではない。むしろ、重要なのは、資本家の指揮の下で賃労働者が遂行する労働がいかなる形態において遂行されているのか、ということだ。
(……)
では、賃労働者のどのような振る舞いが、賃労働者の労働を資本の機能とするのか。賃労働者が生産手段にたいしてそれを資本とするようにして関わることによってである。より具体的に言うならば、賃労働者は、奴隷制のような人格的従属関係がないにもかかわらず、労働契約を遂行するために、自分の「自由」な意志にもとづいて資本に従属し、生産手段を「有益」に消費することによってその価値を維持し移転しつつ、自分の労働の成果を絶えず資本に譲り渡し、剰余価値を産出する。賃労働者は、そのような関わりをつうじて、生産手段に資本としての形態を与えるとともに、翻って自らの労働自体にも資本の機能としての形態を与えているのである。資本家による生産手段の排他的所有、すなわち直接的生産者と生産手段の分離は、このような賃労働者の特異な振る舞いをつうじて、はじめて再生産される。(佐々木隆治)
資本主義は「主体的隷属」をエネルギーとして回転する。日本の「社畜」現象は決してガラパゴスな状況ではなく、典型的な資本主義的状態と言うことができる。日本が外国と比べて特異なのは、司法も労働組織もそれを黙殺するような状況である。
賃労働とは、たんに生産手段から切り離された労働者が労働力を販売することによってのみ労働過程に入ることができるということだけを意味するのではない。その労働過程において生産者が生産手段にたいしてそれを資本とするようにして関わり、自分の能動的行為を資本の機能としてしまうということを意味しているのである。自らの自由意志で労働しながら、その成果をすべて譲り渡してしまう、このような労働は、それ以前の社会には存在しえなかった極めて特異な形態での労働である。それゆえ、冒頭でみたように、このような生産者の生産手段に対する関わりの様態は、本源的には国家暴力による規律訓練によってはじめて創出することができる。(佐々木隆治)
国家暴力による規律訓練……。伝統的なマルクス主義では「国家」を目の敵にすることが多いが、現代の考え方では「教育」「マスメディア」「家族」という装置をあげることができるだろう。
奴隷はただ外的な恐怖に駆られて労働するだけで、彼の現存(彼に属してはいないが、保証されている)のために労働するのではない。これにたいして、自由な労働者は自分の必要に駆られて労働する。自由な自己決定、すなわち自由の意識(またはむしろ表象)やそれと結びついている責任の感情(意識)は、自由な労働者を奴隷よりもはるかにすぐれた労働者にする。なぜなら、彼はどの商品の売り手もそうであるように、彼の提供する商品に責任を負っており、また、同種の商品の他の販売者によって打ち負かされないようにするためには、一定の品質で商品を提供しなければならないからである。奴隷と奴隷保有者との関係の連続性は、奴隷が直接的強制に維持されているという関係である。これにたいして、自由な労働者は自らの関係の連続性を維持しなければならない。というのは、彼の現存も彼の家族の現存も、彼が絶えず繰り返し自分の労働能力を資本家に販売することに依存しているからである。(マルクス「諸結果」)

賃労働者であることが教条化される。構造は再生産される。日本であれば学校を出たら「正社員」となることが正解とされており、それ以外の目標は暗に排除される。私も祖母に、早く会社員になれ、と脅されている^^;
自由な労働者という概念のなかには、すでに、彼が貧民であること、先生的な貧民であるということが含まれている。(……)彼が労働者として生きていくことができるのは、ただ、彼の労働能力を資本のうちの労働ファンドをなす部分と交換する限りでしかない。この交換そのものが、彼にとっては偶然的な、彼の有機的存在にとってはどうでもよい諸条件と結びつけられている。だから彼は、潜勢的な貧民なのである。(マルクス『草稿集』)

南北戦争で奴隷が解放されたのは、「奴隷」よりも「労働者」の方が経済的だった、とする指摘がある。我々はより自由になった。少なくとも主観的には……でも、ずっと搾取され、貧しくなった。逆説的であるが、現実にはそうではないだろうか?


マヨネーズパンってどうなのか

私が今日セブンイレブンに行っておどろいたのは、「マヨネーズパン」なるものが売っていたことである。えっ!と目を疑ってしまった。

「マヨネーズパン」……それは単にコッペパンにマヨネーズを塗って焼いたもので、「ハム」とか「ツナ」といった「具」的なものは一切ない。

私がこれを見て第一に思い出したのは、松本人志の「放送室」で、学生時代の極貧の浜田が、食パンにマヨネーズを塗って食べるのを好んで、ドン引きする松本に「うまいぞこれ」とすすめた、という話である。

コンビニのパンは10年前に比べると恐ろしく小さくなっていて、具も貧弱になっている(原価なんてたかが知れているだろうに)。申し訳程度の具を乗せるくらいであればマヨネーズだけ、とは潔いと言えるのかもしれないが、「ハムマヨパン」「ツナマヨパン」などと比べると、「マヨネーズパン」というのはあまりに悲愴と言うほかない。せめてコーンを散りばめるか、パセリを振るとかしてほしかった……!(冷静に考えてみると、私は余計な具がない「塩パン」が大好きだから、もしかすれば具がないマヨネーズだけのマヨパンをあえて好む人がいるのかもしれない。)

私はセブンイレブンのような巨大資本の「底辺労働者はこれでも食ってろ」というような態度が透けて見えて、不快に思った、というか、ぎょっとしたのであった。

おそらく諸外国では、こんな食べ物は倫理的というか道義的というか、売ることができないのではないか。パンにマヨネーズを塗りたくって、これを食えというのでは、あまりに客をバカにしている気がしてならない。

もしかしたら違和感があるのは私だけで、人々は当たり前のようにマヨネーズパンを買っていくのかもしれないが。個人的には驚いたので書いておこう。


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