7.15.2017

自分ほど理解しがたいものはない

神経症って全般的な態度の異常なのだな、と昨日思った。

昨日は少し二日酔いだったのだが、そのおかげか図書館へ行っても、スーパーへ行っても神経症が出なかった。これは良い兆候だと私は思った。

それからプールへ行って一時間は大丈夫だったのだけど、その後また再発した。

短い間だったが、神経症がない状態は、実に「自由で快適」なものだった。

もう何十年も神経症であることが当たり前だったので、私はつねに社会、他者といった存在に対して「不安」を抱いていて、あまりにも長いあいだそれを繰り返していたので、そのことに無自覚だったのだな、ということに気がつく。

他人、人の目といったものがまったく気にならない感覚……。私は他者があるときに、これまでどれほど強く身構えていたか、ということに驚いた。その態度は神経症が起きてから14年間、ずーっと、何百万回も繰り返していたものだった。あまりにも当たり前すぎて……それが自然な態度だと私は思い込んでいた。

その障壁がなくなると、ひとびとの間にあって何らストレスがないのであった。私が不快に思う場所……人の多いスーパー、人の多い図書館にあって、私は他人がまるで存在しないように振る舞うことができるようになった。私はスーパーのなかで、「目当ての商品を見つけて、買う」というだけの行為に専念することができた。

不安がなくなると……「世の中、マジで気楽だな」と私は感嘆した。世間の人々はこんなイージーに生きているのか……そりゃ哲学や心理学なんていらないな。あらためて神経症の持つ異常性と、苦悩の多さを理解した次第。

私の神経症はもっと「具体的」なものなのだが、根底には他者に対する恐怖、拒絶、嫌悪のようなものがあると思う。対人恐怖症に近いのかもしれない。たしかに私は……ひととコミュニケーションをとるのが苦手ではないものの、深い関係を築くことができない。

神経症の症状は難解である。ある症状が、何を意味しているのか。手を洗う、広場でパニックになる、ガスの元栓が気になる……その症状が本源的に何を意味しているのか、探り出すことは難しい。そこで精神分析やカウンセリングの役割があるのだろうが……。

一度心身症になったときは簡単だった。私は仕事中胸痛で動けなくなったのだが、それは過労を止めようとする無意識の働きだった。私は完全に気胸だと考えていたのだが、大病院でレントゲンを撮ってもらっても異常なし。「心臓神経症」と診断され、抗不安薬を処方されたのであった。結局、二三日寝たらよくなったのであった。

私の場合、神経症それ自体が問題なのではなく「他者に対する全般的恐怖」があったのかもしれない。それが凝縮され転化された形で神経症にあらわれる、と……。

他者に対する関係性を正常化すること、他者に対するトラウマを取り除くこと、これが私の神経症に重要なのかもしれない。

2 件のコメント:

  1. 他者に対する拒絶、嫌悪。
    恐怖はよくわかります。拒絶は適切な距離感が保てない時に感じます。嫌悪に関してはよっぽど理由が無い限り感じたことがないか、感じる前にその場から去ってしまいます。
    経験と時間とともに対処法を得ていけるものですが、他者に対して常にそのような感情を抱いてしまうのはとても辛いことですね、、。

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  2. 私は人との距離感が掴めないんだと思います。他者がいるとどうしても身構えてしまう。
    攻撃されるのではないかという恐怖があるのだと思います。
    「他人とは地獄である」なんて言葉がありますが、そのとおりです。
    経験でなんとかなれば良いのですが、もう諦めて隠遁生活するのが正解なのではないかとも考えます。

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