7.18.2017

グレートマザーを殺せ

人は意識のうえでは愛されないことを恐れているが、ほんとうは、無意識のなかで、愛することを恐れているのである。
愛するということは、なんの保証もないのに行動を起こすことであり、こちらが愛あらばきっと相手の心にも愛が生まれるだろうという希望に、全面的に自分をゆだねることである。愛とは信念の行為であり、わずかな信念しかもっていない人は、わずかしか愛することができない。(E.フロム「愛するということ」)

昨日はSと連絡をとった。ある程度近況報告をして、その後絶縁することに決めた。

仲良く連絡をしていたのだが、最終的に私はもう連絡を取らないことにして、その旨を伝えた。もう二度とSと関係を持つことはないと思う。

またいつもの病的反応、回避性パーソナリティなのかもしれないし、これが適切な対処なのかもしれなかった。

ただ私はSに対して初めて、少しきつい態度をとった。それは自分にもはや興味を持たない女性に対する憤怒のようなものだった。

ようは情けないことだが、Sにとって私は特別な存在でもないなんでもないということをやりとりを通じて感じたがために、Sに離別を突きつけたということになる。

彼女には彼女の人生があり、私ばかりにかまけるわけにはいかないだろう。それは理解している。ただ、それなら連絡にいちいち応じる必要はないのだ。曖昧な態度を取られるのが嫌だった……ので、責め立てるようなことを書いてしまった。

神経症の人間は、女性に対する異常な関係性を持つことが多い。セックスに対する異常性や障害をほとんどの神経症が持っている。

自分が子供じみた戯れを克服し、成熟した恋愛のようなものを達成できるかはわからないが、ひとまず今回のSとのやりとりは、それへの布石だと私は思っている。

つまり、勝手に連絡してきて勝手に文句を言う私は「身勝手」なのだろうが、「身勝手なことを言える」ということが重要なのである。

考えてみると私は生まれて此の方、女性に対して自分の意志を表明するということがなかった。それは女性に対して依存的傾向を生み出した。

私が女性に求めていたのは、抽象的な表現をすると、万能の母親にすべてを包み込まれること、自分の意志、個体の概念を消滅させてもらうことだった。それは胎内回帰の願望に近い。おそらく私の母親との歪んだ関係が原因だったのだろう。

私にとって「愛する」とはそういった胎児的な……自殺的な態度だったのである。そんなわけで、私は数々の恋愛に失敗していった。はなから女性を愛せていないのだ。

私は女性にひざまずき、恭順した。しかし、相手を「罵る」というような行為は、相手を自立した個人として認めるということである。

そのような次第で、Sにもう連絡しない、連絡をするな、というようなことを伝えたときに、一種の達成感を覚えた。壁を乗り越えたような。

Sは私にとって、もっともグレートマザーに近い女性だった(子どもを慈しみ育む一方で、束縛し飲みこむ「偉大な母」)。しかしこのグレートマザーは、儀礼的に殺されなければならない。そうしなければ子どもは自立できない。

グレートマザーは死んだ。理不尽な暴力と拒絶によって死んだ。もはや私の前には現れない。おっさんは、やっと乳離れできるんだろうか。

1 件のコメント:

  1. 御厨鉄さんが女性に、万能の母親にすべてを包み込まれるようなことを求めているとしても、それ自体はとくに幼稚な欲望だとは思いません。しかし相手に求めるだけで、相手の女性は何を求めているかにも目を向けて、喜ばせてあげることをやらないとすれば問題になります。関係は続きませんよね。御厨鉄さんはそれができていないのかしら?ブログを見る限りは、ごはんをご馳走してあげたり、ちゃんとやれてそうな気がしますけど。相手の女性を喜ばせてもあまり嬉しくないですか?
    BYブログのひそかなファン

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