7.05.2017

自身がまず灰となるのでなければ

神経症としての私は見事に社会不適合化している。

哲学的な解釈によれば、労働は一個の奴隷制であり、家族は国家イデオロギー装置である。

精神分析的に言えば私の神経症は病気とはいえず、エス(=イド 「それ」の意)そのものであり、私はエスを排除するよりも「私」の方を治療しなければならない、と思っている。

で……そのようなことを学んだ結果、労働意欲を削がれ、社会に対する適合能力が奪われ、家族を憎むニートのおじさんとなった。

ただ良かったことは、神経症はだんだん楽になっているということである。

これまでの私は特に電車内などがきつかったのである。しかし考えてみると「電車の中」という空間はどう考えても人間いや生物にとって不自然な環境であり、これに適合できないことが人間的欠陥であるとは私には思えないのである。

私の神経症が拒絶する空間はそれ以外にもたくさんあるが、結局のところ私はそういう場を避けた。どうしてもいなければならないときは、安定剤を飲むか、睡眠薬を飲んで寝てしまう。そうやって逃げることにした。

抑圧的な「世間」はこう言うだろう。自分を変えなければならない。自分を社会に合わせなければならない。標準的自己となるよう矯正しなければならない……。人は言うだろう。親を愛さなければならないとか、兎にも角にも働かねばならない、と。

私以外の存在の何もかもが私のエスを否定するので参ってしまう。

かつては、「私」もまた「エス」を否定していたのだ。これが神経症を生んだ。個人のなかで私とエスがぶつかるのである。前輪と後輪が互いに逆回転しようとするようなもので、当然のように病んだ。

神経症は治そうと思えばより悪くなるというが、病者にとっての「治療」とは「私」が「エス」を抹殺する、ということなのだからうまくいくはずがない。

しかし病者にとっての「理想」とはこのエスの抹殺なのである。なぜこんなへんてこりんな、屈折した「理想」が与えられたのだろう?自分で自分の半身を殺そうとするなんて。

それを教え込む場がイデオロギー装置としての家庭と、学校教育なのである。ようは個人成員をよりよく支配に適した存在にするためには、より「理性的」に教育しなければならない。感情を否定させなければならない。

なぜというに、つねに感情こそ正しいからである。感情をうまく肯定し、直感的に生きる人は、この世はどうも耐えられないようにできているらしい。理性的に考えると社会は整然に機能しているよう取り繕われている。しかし感情的には矛盾だらけで、強固に抑圧的な社会である。

我々は感情的な不満を理性的に解釈するよう教育を受けている。「私はこう思う」と表現することを義務付けられている。話し合わずにぶん殴ると罪になるし、政治的手続きを踏まずに国家改革を企むと罪となる。

しかし感情は理性化すると途端に装置に絡めとられ、処理されてしまう。それは定型的に処理される。結局のところ、私たちはこの巧みな装置によって感情を否定せざるを得ない。我々は学習する。無理矢理に感情を抑えつけることを。

話が長くなった。

で、現在の私の状態は、私の「エス」以外をすべて抹殺しようという試みなのである。社会や学校や労働やあらゆる人間集団を排除する。当然、私自身も火に焼かれなければならない。

まあ何ていうか過酷な状態にあるおっさんなのだが、自分がなぜこんな悲喜劇的な環境に置かれているのか考えてみると笑えてくる。なんでこんなにへんてこなのか。
我々が欲し求めているのは、根源的意識を土台にした人間であって、知的意識を土台にしている人間ではない。最終的に目的となるのは知ることではなくて、在ることである。汝自身を知れというモットー以上に危険なモットーはいまだかつてなかった。なるほど、人は自己自身をできる限り知らなければならない。しかし、それははっきり言って知ることを目的として知ることではない。遂に自己自身となることが可能となるように、自己自身を知らなければならないということである。汝自身となれが究極のモットーなのだ。(無意識の幻想/D. H. ロレンス)
ちなみにフロイトの概念である(起源はニーチェ)「エス」という言葉について深く理解しているわけではない。覚えたら使いたがるおっさんである。

今日はネットで知りあった女と食事をしてくる。

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