7.08.2017

おじさんは妄想する

最近話題の松本卓也氏の「人はみな妄想する」を読んでいた。著者が1983年生まれ。33歳でこんな本が書けるのか~と才能の差にショックを覚える。

神経症に関してはラカンやフロイトの方が向いているようである。分裂病はユング派、神経症はフロイト派、ということは聞いたことがある。



この本を読んでみるとフロイト、ラカンは神経症をかなり的確に捉えられていると感じた。
精神病者はいわば無意識の殉教者といえるでしょう。殉教者という言葉に証人という意味をこめて、そういってよいでしょう。そこで問題になっているのは、明白な証言です。神経症者も無意識の存在を証言している人といえますが、彼らは覆い隠された証言をしているので、それを解読する必要があるのです。(ラカン)
最近、私も自分の無意識に関心を持っている。無意識は何を訴えたいのか。何が抑圧されているのか。それを発見することが治療に繋がると考えている。

とりあえずは無意識を「甘やかす」ことにしている。懐柔策である。神経症症状が起きそうなところはひたすら避ける。虐められてひねくれてしまったエスだが、優しくすれば素直になってくれるかもしれない。
神経症の症状には表象の心的加工が認められるのに対して、精神病の症状にはそのような加工が認められず、表象がそのまま出現している。
「神経症の場合には、かなり苦労して深層から掘り出さねばならないものの大半が、精神病ではおもてにあわれていて、誰の目にも明らか」フロイト「自らを語る」
精神病は、無意識(エス)がそのまま表出する。神経症は、複雑に、巧妙に加工されている。私自身にも何が原体験なのかわからない。
①神経症は、エスからやってくる欲動の要求に自我が耐えられなくなったときに、自我がエスを黙らせようとすることから生じる。
②精神病は、エスに自我が打ち負かされてしまったときに、自我が外的世界から引き剥がされることから生じる。(「神経症と精神病」フロイト)
エスからの欲動とはなんだろう?抑圧の代表的な例は、フロイトのエディプス・コンプレックスだ。つまり母親と姦淫したい、父親を殺したいという欲望である。フロイトによれば我々は幼少期、そう欲望しているとのことだ。

私の場合はなんなのだろう。実はホモだったとか。実はペドフィリアだったとか。うーん。

いろいろな感情を抑圧してきた。「自分は無価値だ」と思っていた。「自分は間違っている」と思っていた。そういう、割とだれにでもある抑圧によってでは神経症は起きないのだろうか。私は上のような抑圧から解放されることで、少し神経症は楽になった。もっと原体験的な、より大きな欲動があるのだろうか。あるのであれば、それを発見したい。
神経症における現実喪失は「現実生活からの逃避」である。それは、精神病における現実喪失のように単に現実を否定することではない。神経症者は、現実の外的世界のほかに、そこから隔離された空想世界をもっており、その空想世界のなかでは外的世界に生きていくために生じる様々な要求を直視せずにすますことができる。この空想世界への逃避が、神経症における現実喪失にあたる。神経症者は、空想世界から欲望の素材の提供を受け、そのなかで空想的な満足にふけることができる。ただし、空想世界はまったく外的世界と関係のないものではない。むしろ、空想世界は「好んで現実……のある一部に依托し、その部分にある特別な異議と、(……)象徴的とわれわれが呼ぶ、秘められた意味を与える」とされている(フロイト「神経症と精神病における現実喪失」)
この記述を読んで、私は妄想の世界にいるのかな、と思った。なんといっても、私は労働から逃避している、と見られてもおかしくない状況にある。いや、たしかに「逃避」している。逃避しているのだが、恐れているのは単なる「労働」ではないだろう。もしかすれば、自分が何か達成すること、自分が成熟や生長することを怖れるような気持ちがあるのかもしれない。

というか、このブログが空想世界なのではないか?と思わなくもない。このブログは私の逃避だったと……。

そういえば私は中学生の頃2ちゃんねるにハマっており、それからネット依存症的な生活になったのであった。ちょうどその頃神経症になったのだった。それからというもの、ずっと私はインターネットに常に居場所を求めるようになった。

フロイトの言う空想世界とインターネットの仮想空間はほとんど関係ないのだろうが、私の神経症にとってインターネットという存在がけっこう重要になるのかもしれない。

もう少しラカンとフロイトを勉強してみたいと思った。

0 件のコメント:

コメントを投稿