8.10.2017

「テレビ化」する日本の飲み会

私は神経症だし、コミュニケーションが苦手だ。それなので、飲み会も嫌いである。

今日は帰国後に時間に余裕があったので音楽セッションに出向いた。それが終わると食事をしようということになった。私は車を運転するので飲まないが、他はいくらか飲んでいた。

そこでやはり私は、ポツーンとしていた。いや、私もいい大人だから他人の話に体のいい相槌をしたり興味のあるふりをする。ゲラゲラ笑うこともお手の物だ。

しかしこういう場では私は「ほんとうの自分」を出す気がしない。それは金塊のようなもの(あるいは陰茎のようなもの)、しっかりと隠さなければいけないものだと知っている。だから、ほんとうの意味で楽しめることはない。



私が悟ったことには、飲み会という場はバラエティ番組の再現である。だれかがおもしろい話をする。だれかがぼける。それをつっこむ。周りが笑う。一定の時間でその役割を交換する。視聴者と、タレントが入れ替わる。そしてまた笑いが起こる。

テレビを観ておもしろいと思う奴がいる。テレビに出ておもしろい話をしたい奴がいる。この二者はほとんど共通だが、この二者が「飲み会」のムードを醸成している。飲み会をつまらない、くだらないと思う人はきっとバラエティ番組も嫌いなのではないか。(少なくとも私はそう)。

飲み会は「テレビ化」している。これは簡単な心理学だ。

ひとはだれでも、お笑い芸人に対する微妙な感情を抱いている。バラエティ番組で、お笑い芸人はトークで笑わせる。また、他人のトークに笑う。私たちは彼らがそれだけで、庶民の何倍もの金を稼いでいることを知っている。その事実を、テレビを見る人であれば、毎日1時間程度は教え込まれる。

私たちは潜在的に芸人に憧れを持っている。自分が芸人ではないことに潜在的な憤怒を抱いている。芸人は容姿が悪いことが多く、学歴や育ちも良くない。しかしトークひとつで、無味乾燥の仕事をしなければならない私たちよりずっと優雅な暮らしをしている。ただテレビに出て、うまいものを食ってコメントするだけで百万円を稼いでいる。そういう矛盾を突きつけられている。

テレビを観ている人々は、つねにこのような矛盾をテレビから感じている。言うまでもなく無意識の領域で、である。

飲み会とは、そういう抑圧された憤怒を解消させる「儀式」である。自分を芸人に同一化させたいという欲望の現れである。その各々の志向性が飲み会特有のムードを築き上げる。

そこでは「放送倫理」や「視聴率」といったファクトが重視される。たとえば自分は鬱病だというカミングアウトは受け入れられない。また、おもしろくない発言、日常的(ケ)の発言は歓迎されないようになっている。おもしろいがなんら本質的ではない、皮相的な話が続く。

酒の酩酊が、集団幻想を増長させる。大麻を吸って曼荼羅を見るのも、キノコを食べてサイケデリックな幻影を見るのも同じことである。バラエティ番組の舞台……それはテレビ化された人々にとって聖なる領域なのである。

彼らはそこにどうしても辿り着きたい。それが本音である。悲しいことだが、平凡な人とはそういうものである。

酒は古来より神事に飲むものである。現代日本における神話は、テレビ局が広めているものである。コミュニケーションがテレビを通して発信されているのではない。テレビがコミュニケーションを再生産しているということになる。

テレビは神話となる。飲み会は儀式となる。これが現代日本の構造である。



ああ、やっぱり宅飲みが一番ですわい^^ 生ビール漬けの日々から発泡酒に切り替えることの悲しさよ。

久しぶりの日本は……何もかも高い、死ぬほど暑い、バスと電車のアナウンスが耳障り&街のスローガンや警告が目障り、渋滞だらけ、という印象。

あと、コンビニで店員に挨拶されても無視しなければならない……ということを忘れていた^^; 目をそらしてそそくさと品物を物色しなければならない。変な国だ。

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