8.13.2017

日本人は個人主義なのか……

「日本人は集団主義ではないよ」説の山岸俊男の著書、「心でっかちな日本人」を読んでみた。

そこに書かれていることは、そこまで日本人が「個人主義的だ」ということを示唆するものではなかった。

アメリカ人は日本人よりも集団主義的であるが、これは「匿名の他者」に対して日本人よりも協調的ということを意味していた。この匿名の他者とは、行動心理学の実験でよくあるような、ランダムに集められた初対面の相手、実験による制限された情報伝達以外は名前も顔も知らないような相手のことである。アメリカ人はそういう相手に対して同調的、協力的な態度をとる。

この「匿名の他者」に対して、日本人はというとずっと個人主義的な反応を見せる。言うなれば冷たい、信用しない反応を見せる。一匹狼的にふるまう。

それでは日本人は個人主義的なのかというとそうでもなくて、ある非匿名的な集団内においては集団主義的な傾向を見せる。たとえばサークルや職場のような「狭い」集団内においては相互依存的な反応を見せる。

山岸の本を読んでがっかりしたのは、結局巷間で言われてる日本人像・アメリカ人像と変わらないことだ。「アメリカ人は集団主義的である」と言うとき、そこにはpublicに対して親和的であることがわかる。「日本人が集団主義的である」ときは、いわゆる狭い「ムラ」に対してそうだということがわかる。このようなことは、だれでもわかっていることではないか。

例えば私たちは、電車の中では死ぬほど無愛想でムカつくサラリーマンが、自分の会社のオフィスではいつもニコニコ、気さくなおっさんとして通っていることを知っている。このように日本人がウチとソトを切り分けているなんてことは、もう何十年も前から指摘されていることだ。

本書で興味深かったことは、私たちは既成の文化に対して従順になることを強いられていることだ。たとえば会社の「社風」というものがあれば、私たちはそれに従わなければならない。それが自分の利益/不利益となるからである。

ある教室でいじめがあったとして、クラス全員がいじめに容認であるなかで、ひとりいじめに反対することは自分が危険に晒されることになる。反対にクラスの半分程度がいじめに対して反対を表明していれば、自分もいじめに反対することができる。このように集団のなかの個人には、利益/不利益を計算し立ち回るという性質がある。

だからサービス残業が蔓延している日本だが、ほとんどの人間は好き好んで「サービス残業したい」と思っているわけではない。少数の人間が「サービス残業をせよ」というムードを醸成し、あとの人間は利益/不利益を計算して、功利的な判断をしているに過ぎない。同じ状況はPTAや町内会にも当てはまる。ほとんどの人間にとって不利益な組織に、ほとんどの人間が従う、という状況が起きる。

このような状況を外国人が見るとすれば、「日本人は集団主義的だ」「自分よりも他者を優先している」と判断するのだろうが、制度化された集団主義が既存している場では、「それに従わなければ自分の立場が危うくなる」という状態なわけで、各々の個人が特別に他者を尊重しているわけではない。

そのように考えてみると、アメリカ人が個人主義的なふるまいをするのは、それがpublic内で有益であるからであり、仮に日本のオフィスへ異動になったとすれば、集団主義的な行動をするのではないか(無論嫌々ながら)。「ぼくは個人主義だ!」とか言ってる奴がWorkaholicなeconomic animalになるというわけだ。

日本は立法国家ではなく、明文化されない法が支配しているのであり(山本七平の言うような「空気」)、それに従って(外から見ると奇妙な、呪術的な)ふるまいをしている日本人は、別にそうしたいからしているわけではない。ねずみが電気刺激から逃げるとしてもねずみが走り回るのが好きなのではない。現にアメリカ人にとってpublic的な(日本人にとってソトの)相手に対しては、冷たい反応を見せる。

まあ、そういう当たり前のことが繰り返されているだけだった。



じゃあ日本人は個人主義的ではないのか……?ということが問題となる。

ここ1,2週間、日本人は個人主義なのかということで頭を悩ませているのだが、常に思うことは「個人主義ってどういうことだよ!」ということである。ある集団がより「個人主義的」であるとはどういうことを示すのか。

全体主義に対する個人主義……たとえばナチスや大戦中の日本のようなファシズム状態を「全体主義」としており、その反対が個人主義となる。ある個人が何を発言しても良いし、それは尊重されるという態度のことだ。ヴォルテールの「私はあなたの意見には反対だ、だがあなたがそれを主張する権利は命をかけて守る」みたいな。

功利主義に近い個人主義……ホリエモンのように個人の利益ばかり追求し、publicやムラの利益や倫理を無視するような態度を示すことになる。これは「利己主義」と近い。個人の利益を優先するか、集団の利益を優先するかということである。

行動学的な個人主義また行動学的な分野では、「他者に同調的であること」「自分の態度を他者に合わせること」が集団主義的であるとされ、個人主義はその反対ということになる。

山岸の本の場合の「個人主義」はどうも二番目の利益追求的な個人主義を指しているようである。で、東大のナントカせんせーの発表では最後の行動学的な個人主義を指して「日本人は個人主義的だ」ということを示しているらしい(よくわからないが)。

このように「個人主義」という定義が曖昧模糊で、おっさんはこの辺を追求することに飽きてきた。

というか、「日本人は集団主義だ」という主張が内外でたくさんあって、だからこそ「個人主義だよ」と指摘することが重要なのだろうが、そもそも最初の日本人集団主義説が、おバカな勉強不足の西洋人から輸入されたもので、西洋人のものならなんでもありがたがる日本の学者が祀り上げた、という印象が強く、そのような議論は「初めから不毛」で、あまり意義がない、という気がしてくる。

ただ、だいたいわかったことは「抑圧的な社会では、個人の性質にかかわらず集団主義的な傾向が強くなる」ということで、結局各々の個人は規制化・制度化された場においては無力な分子に過ぎない、ということである。いじめが支配する教室ではいじめ反対なんて叫べないのである。そういえばアメリカでもいじめは多いと最近明らかになったね。

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