8.08.2017

「市民のための警察」という幻想

バリ島内を移動しているときに、幹線道路で検問があった。そこで私は警察に、車検証がコピーしかないと指摘され、賄賂を要求された。

周りを見てみると外国人ばかり取り締まっている。インドネシアはジュネーブ条約に入っていないから、国際免許証が通用しない。ほとんどの外国人は無免許なのである。

私も無免許で運転していたのだけど、国際免許証を見せたら「免許はOK、but」と言われた^^; 車検証がないのはまずいらしい。あとで聞くと、盗難車が多いから必ずチェックされるとか。

で、私は10万ルピア(800円)握らせて逃げた。はじめは20万を要求された……が値切ってやった^^;現地人の交通違反は5万ルピアまで落ちるというからもっと値切れるかもしれない。

よく見る光景。


ああ、POLICI(インドネシア語で警察)は腐ってるな~、と嘆くおっさんだった。たった5分で10万ルピア……どんな商売よりボロいな~と考えてしまう。たとえばこちらでは、たらふくナシ・ゴレンを食べて1~2万ルピアなのである。

また別の話。

私はバリ島からやや離れた「ギリ島」という島に1週間ほど滞在していた。この島の特徴は、半径数kmのとても小さな島であること、自動車やバイクが走っていないこと、そして警察がいないことであった。

自動車やバイクのない島での滞在は、すばらしい非日常だった。
日本にもそういう島や村をつくるべきだ。

警察がいないとどうなるのか、と人は思うかもしれない。治安は大丈夫なのか、と。これが不思議なことに、バリ島にいるよりも不安がないのである。夜道を一人で歩いても危険を感じない(葉っぱやきのこを売る人々はいたが)。

無論、現地人はほとんど顔見知りであり、外国人はわざわざリゾート地で犯罪を犯さないということもあるだろうが……。

所詮、警察は賄賂次第でどうとでもなる。クタでやたら多い詐欺両替屋も、警察の賄賂で維持されている。堂々と違法行為を行うために、警察が機能しているという逆転が起きている。かえって村長のような、首長的な権力者が司法権を握った方が治安はよくなるようである。



それでは警察は何のためにあるのだろうか?

国家が設立されるための条件はふたつある。警察と軍隊である。このふたつの合法的な暴力装置が存在しない国家はない。軍隊は国家のためにある。これは明白だろう。対外的な脅威と無縁でいられる国家は存在しない。

では、警察は何のために存在しているのか。その目的は、「市民のため」なのか。少なくとも表面上はそういう顔をしている。私たちが治安を守っている、安全な社会を維持している、と。

しかし警察とは、「国家のため」の組織ではないのか?そこに「市民のため」という要素は、建前、空疎なハリボテに過ぎないのではないか。

私は国家というものを考えるときに、教育や医療の点で考えることはした。しかし警察という組織についてはあまり考えたことがなかった。

ひいては日本の生きづらさに関しても、警察が原因であることも大いにあるのではないか、と考えている。

そもそも、「犯罪組織」を堂々と標榜しているヤクザと、日本の警察はなぜ蜜月なのだろうか?^^; いつになったら山口組を警察が壊滅するのか。所在地も組織構造も割れているというのに。ちんけな交通違反を取り締まる前に、やるべき仕事があるだろう?と思ってしまう。

他には、政界との癒着。パチンコ産業と警察の癒着。カルト宗教との癒着。性風俗産業との癒着。道路利権との癒着。マスコミとの癒着。免許制度での利権。警備会社との癒着。産業界への天下り。葬儀業者との癒着、なんて話もある。

結局のところ日本の警察というのは、インドネシアのポリシのように直接市民から賄賂を収奪するなんて露骨なことはせずに、間接的搾取、巧妙な搾取へと変化しているに過ぎない。

これは税金にも同じことが言えるのであって、私たちは「五公五民」と聞くと「ひどい重税」「えげつない搾取」のように感じるが、現代の国民負担率は、28年度で45%(財務省発表。財政赤字を加味すれば50%を越える)と大して変わらないことになっている。(無論、高福祉国家はもっと高い税率だが)

元来警察というのは、ヨーロッパでも日本でも行政に雇われた用心棒が担っていたようである。維新以前の日本で警察の役割をしていたのは「番太」で、非人の仕事だった。現代のポリシのようになにかと言いがかりをつけては賄賂を要求するので農民にたいそう嫌われていたようである。

現代では国家中枢にある警察組織が、かつては非人のような蔑まれる職業だったということは何か示唆的であるようにも思われる。

もっとも、現代の訓育されたBな日本国民の方々には、警察の実情は永遠につかめないのではないかと思う。「警察24時」でも見て楽しみたまへ。


ざっと調べたけど、警察権力を基軸とした国家論ってなかなかない。フーコーはこんなことを書いていた。
近代国家は、新しい政治形態のなかに、古いキリスト教の権力技法、すなわち司牧システム(パストラ)を導入したのである。この近代の司牧権力(pouvoir pastoral)は、国家の人口を構成する住民の健康、福祉、安全を守る(現世での救済の保証)システムであり、この結果として、官僚層が増大し、十八世紀にいたって、警察機構が成立した。
結局のところ、警察はひとつの「近代的病」 に過ぎないのではないかと私は考える。

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