10.17.2017

「社会不安障害」って、だれでも社会は怖いでしょ

「社会不安障害」とはなんぞや?

「社会に不安を感じること」が病的なのだろうか。

なんたる「社会」の高慢!

……ということはない。



Giovanni Battista - Prisons


もともと社会不安障害SADと同様の症状は、日本の「対人恐怖症(英語でも taijin kyofusho symptoms ; TKS)」として1920年頃から研究されている(あの有名な森田正馬センセーによってである)。

これは日本文化に依存的な病気だとされ、国内外のしょうもない比較文化学者に餌を与えていたのだが、他の国の人にも同様の症状があるってことで1980年、アメリカ精神医学会のDSM-IIIで「社交恐怖Social phobia」としてとりあげられたのが契機で研究が盛んになった症状である。ちなみにTKSとSADは、DSM-Vで統合されて、TKSは消滅した。

DSM-Vから社会不安障害の診断基準の引用。赤字、強調は筆者。
A.他の人からの詮索の対象となりそうな社会生活場面で起こる顕著な恐怖・不安で、そのような場面が1つあるいはそれ以上ある。例として、対人交流場面(会話・あまり親しくない人との雑談)、人目を引く場面、人前での行動場面(他人の前での板書・発言・飲食など)。 (だれでもあるわ
子供の場合は、常に不安は同世代の仲間といる時に起こり、大人の中では起こらない。
B.自分の取る行動や不安な態度が変に思われるのを恐れる。(例えば、恥ずかしく感じたり、誰かに恥ずかしい思いをさせる。他人から拒絶・嘲笑されたり、誰かに不快感・苛立ちを与えるなど) (だれでもあるわ……ちなみに誰かに不快感・苛立ち・羞恥心を与えるという「加害意識」が、本来はTKSだった規準
C.その社会生活場面はほとんど常に恐怖や不安を引き起こす。
子供の場合は、恐怖・不安は泣く、癇癪を起こす、しがみつく、竦む、震える、言葉がでないなどで表現されることが多い。
D.その社会生活場面を回避する、あるいは強い恐怖や不安を持ちながらひたすら我慢する。 (そりゃそうするわ
E.恐怖や不安は、その社会生活場面が持つ実際の脅威やその社会の文化的文脈にそぐわない。 (実際の脅威ってだれが決めるの?
F.恐怖、不安、あるいは回避は一般には6ヶ月以上続く。 
G.恐怖、不安、あるいは回避は臨床的に大きな苦痛であり、また、社会上や職業上、あるいは他の重要な領域の機能の妨げとなる。
結局これね
H.恐怖、不安、回避は物質(依存性薬物・医薬品)による生理学的反応や他の身体疾患によるものではない。
I.恐怖、不安、回避は他の精神障害、例えば、パニック障害、身体醜形障害、自閉症スペクトラムの症状ではよく説明できない。
J.他の身体疾患(例えば、パーキンソン病、肥満、火傷や外傷による傷跡)が存在しても、恐怖、不安、回避はそれとは関係せず、その症状が顕著である。

特にGの項目は、精神医学においてたいてい現れる文言である(例えば鬱病やPTSD)。つまり患者がそれを苦痛として認識し、医師に訴え、社会生活や就労生活が困難となった場合、「あなたは社会不安障害です」診断される。そこからはじめて、治療の対象となるということである。

これは必須規準であり、他をいくつ満たしていても当人があっけらかんとしており、家族・学校・職場といった周囲の人々が危害を加えられるということがなければ病気ではないということになる。

「パーティや葬式のような集まりにはとても恐ろしくて参加できない」とか、「会社勤めなんて死んでも無理」とか、「親戚の集まりが怖い」「コンビニですら怖い」という人であっても、たとえば芸術家や小説家のように一日じゅう家に篭っていて「社会上」「職業上」困難が生じてなければ、病気ではないことになる。

病気ではないのである。



これって、精神医学特有の概念じゃないだろうか。たとえば次の文言はどうか。

・血圧が200mmHgだけど、社会上や職業上、あるいは他の重要な領域の機能の妨げとならないので高血圧とは診断できない
・腫瘍マーカー陽性、MRIやCTでも明らかに悪性腫瘍が存在するけれど、社会上や職業上、あるいは他の重要な領域の機能の妨げとならないのでガンとは認められない

こんなことはありえない。精神医学とは、統合失調症のように病識のない場合を除けば、本人が問題なく社会的な営みを行えていればそれでオッケーなのである。

「ちょっとあんた、昼夜逆転して、漫画書くばっかりで引きこもって病気なんじゃないの?対人恐怖症とか、社会不安障害なんじゃないかしら。たんぽぽメンタルクリニックいってみましょうよ!精神科じゃないから怖くないわよ」
「うるせえな!俺は同人誌を売って年間3000万円稼いでるんだよ!家に毎月5万円入れてるだろ!」

というときのニート君は、病気ではないことになる。

したがって、社会に不安を感じるからといって、病気ではないということを、DSMは担保していることになる。さすがアメリカ精神医学会、といったところか。

まあ、そもそも「こころの健康診断」なんて(一部の企業を除けば)ないわけで、患者か家族が治療を求めて医療機関を訪れることがほとんどである以上、医師が勝手に「お前は病気だ」なんて乱暴はできないことになる。

精神医学では、診断の段階でも相互承認が必要ということになる。自分の「精神」を他者に委ねるかどうか。私のこころは病んでいるのか病んでいないのか。この点を患者本人の意志にある程度拠るという点で、DSMの美しい理念が伺える。

というか、フーコーの「精神医学は、カトリックの懺悔にとって変わった(うろ覚え)」という発言が思い浮かぶなあ。



しかし私は訴えたい。

社会は怖い。

そして社会が怖いことは当たり前ではないのか。

もちろん私も、社会に怖いものなんてないぜ!とまったく順応していた時期がある。

しかしそれは、社会の恐ろしさを単に「忘れていた」に過ぎない。人が死の不安を忘れて日常に没我できるがごとくである。

見た目や表面をどんなに取り繕ってみても、この社会の中にあることは不安と無縁ではいられない。

「中世に比べたら天国だ」とか、「江戸時代の将軍より俺らの生活は豊か」という素朴な意見を聞くことがある。

しかし、私が考えるに、中世の方が今の社会よりマシだったと思う。

そこには「多様性」があったからだ。個人の多様性ではなく、社会の多様性である。

藩が違えば価値観が違った。農村の価値観にあわなければ、都市の日雇い労働者、宗教的な求道者の道、あるいは流浪の被差別民の文化があった。多元的な社会が幾層にも重なり、併存していたのが近代以前の世界である。

今の日本は、鹿児島だろうが、北海道だろうが、だいたい決まった「日本国民」という価値観で統制されてしまっている。新宿のコンビニだろうと、那覇市のコンビニだろうと同様のサービスが求められる。それどころか、ヨーロッパやアメリカもたいした違いはないように思われる(「世界はひとつ」である)。中世におけるアジールのような逃げ場がほとんどないのである(私はインドや東南アジアで「沈没」する人を、その点で理解できる。物価だけの問題ではないのだ)。

したがって、私は、「社会が怖い」といってメンタルクリニックに駆け込む人が、病人であるように思われない。それどころか、彼らこそ健常な精神をもっていると言える。しかし私は、彼らを病人として扱うなと言うつもりはない。医師が彼らを助けるために、診断し、治療を施すことが悪いとも思わない。それはそれで立派なことだと思う。



まあ、とりあえず……

やりきれない世の中だな~、と思うのである。

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