10.31.2017

フーコーはえらいと思う

山形浩生のサイトが好きで、読んでいる。

翻訳者にふつう興味はわかないのだけど、「誰も教えてくれない聖書の読み方 」というケン・スミスという本を読んだときに、「このひとはただものではない訳者だ」と感じ、そこから一目おいているのである。経済学関連の訳書でもとてもお世話になった。

で、彼のサイトを見ていたらフーコー批判の翻訳が記載されていた。

歴史家としてのフーコー」というページ。

この著者「キース・ウィンドシャトル」の指摘は、半分くらいは同意できるが、半分くらいは山形のいうように「極端」だと思う。


髪があった頃のフーコー。
スキンヘッドにしたのはハゲが気になるからだった。


古代ギリシャの同性愛は一般的か


たとえば同性愛の部分。「古代ギリシャでは同性愛が異性愛と同じように普遍的だった」というフーコーの主張は、たしかに確証バイアスかかりすぎだし、何言ってんだホモ、と言いたくなる。

それでも現代よりも同性愛が一般的な性関係だったことは事実だろう。それにプラトンが同性愛嫌いだった、という主張はちょっとぴんとこない。詩人たるプラトンが、「まともな頭の男性なら近親相姦と同じくらい嫌悪すべきもの」を作品に描写するだろうか。

というか……プラトンって男色じゃなかったの? それとも男色者だけど男色が嫌いなの?ロリコンが自己嫌悪に陥るようなもの? どうも私のプラトン観がぐらぐらする……。

キースはソーントンを引用して、 
当時でさえ同性愛は「ギリシャの哲学者は同性愛を歴史上の発明物として見ており、「自然に反する」もので、人間のゆがんだ創造力の結果であり、誘惑への弱さの結果なのだと考えていた」
とする。

古代ギリシャで同性愛が高尚とされたのは、まさに「自然に反する」からだと私は思っていた。というのは、異性愛は動物でも卑しい奴隷でも可能だからである。ふつうの人間は、同性よりも異性に欲情する、それが本能である。だからこそ、同性愛が「プラトニック」とされたんじゃなかったか。

ここで問題となっているのは、同性愛が嫌われていたかどうかっていうより、自然の本性に従うべきか、自然から逸脱すべきかという割と普遍的な哲学問題だと思うのだけど、これは考えすぎだろうか。

キースは、「確かに貴族には同性愛の伝統があったようではあるが、それはいつの時代も、ごく少数のエリート的なマイノリティでしかなかった」としているが、これは事実だと思う。

だけど貴族に伝統があったってことは、周囲にも同性愛が是とされたことは事実だろう。なんてったって、気高くなければ貴族じゃないし。恥ずかしい振るまいをしたら貴族じゃないし。いや、これは確証バイアスか……。

狂人のとりあつかい


あと、狂人が動物扱いされていた、というキースの主張。これは私も賛成だ。たとえば明治維新直後の東京でも、狂人は野良犬のように扱われていた。また中世日本では狂人は「もの憑き」だと言われていて、見た目は人間だが、精神(魂)は動物霊にのっとられているとされていた。だからなかば獣扱いされていた、という主張は理解しやすい。

でも狂人が野放しであったかというとそうではなくて、たぶん手厚い施しはあったと思うんだよな。とくに16世紀以前のヨーロッパは、弱者に対する布施が救済へのもっとも簡単な近道だったでしょう。当時の貴族なんて、外を歩くたびに乞食にたかられて、ほとんど貯金なんてできなかったという話を聞いたけど。

で、なんでふらふらしていた狂人が閉じこめられたかってのは、狂人を人間扱いするか、管理するか、という問題よりも、領土拡大や植民地主義の限界、都市人口の急激な増大、ブルジョア層の拡大といったことで説明できるのではないかと私は考えている。

この議論においては、私はフィリップ・アリエスの「教育の誕生」において、子どもたちが都市の大人社会(のんだくれや浮浪者や狂人)から隔離するために学校教育が是とされた、という話が気になっていて、手厚く加護する対象としての「子ども」が生まれたことと、都市の浮浪者連中の大掃除は関係があるように思われる。このあたりは煮詰めていないけど。

また、フーコーがいうように「狂人に居場所があった」というように、それなりの社会的役割はあったのではないかと想像する。いまでいう統合失調症のような妄想症の狂人が、巫女のように扱われたり、あるいは神のように扱われたこともあるんではないか。これはロマンかなあ。

たとえば精神医学以前(つまり明治維新以前)、「物憑き」の治療にあたったのは、おなじような狂人だったぞ、と森田正馬は指摘している。
「第八例(加持台の女性)は明かに生来精神病的の人格であって(略)世に加持台、巫祝、神術うかがいなど称して愚人の迷信の教導者となれるもので、吾々の経験せる多くは皆此類で、殆んど総てが通常人とは変わって居る」
ここでは、狂人に近い存在が宗教的役割を担っていたことが表現されている。

私は狂人が動物扱いされていた一方で、社会的役割を担っていたと考える(フーコーの表現する形ではないにせよ)。これはアニミズム的な要素があるが、近代以前のヨーロッパでも民衆にアニミズム的信仰はあったと思っている。

パノプティコンは昔からあったか


で、最後の「訳者コメント」、つまり山形のコメントがとても気になった。
パノプティコンを持ち出してきて、「見られている(かも)」という意識がそれぞれの個人の内部に規範力を持つようになる、という創発理論的な権力の発生は、お話として楽しいし、またそれ自体は権力の一つの発現様式として実在するし、まちがってはいない。でもそれが本当に啓蒙時代に起源を持つのかはあやしい。本稿には書いていないけれど、この発想は実はずっと古い。「神様が見てるから悪いことをしないようにしよう」「閻魔さまが見てるから、地獄にいかないようによいことをしよう」という発想はまさに、「監視の可能性」→「規範の内面化」→「個人の規制」という社会統治の方法であって、これははるか昔から存在していたし、時の権力が昔から使ってきたものだ。結局、それの有無だけでは何も言っていないに等しい。

山形の言うように、「規範の内面化は昔からあった」とすることは、一定の説得力があるように思われる。「おてんとさまがみている」でなくても、キリスト教の教説なんてもろに規範の内面化だし、それが有効な社会統治の手法だったといえるだろう(だから明治政府は、統制装置としての新しい神道を創設する必要があった)。

でも、その統治とはなにものによるなにものへの統治なのか。「おてんとさまがみている」の規範は、せいぜい家族共同体、村落共同体レベルだろう。しかしフーコーの指摘した統治は、国家レベルであるから、規模も内容も質も量もまったくちがうと思われる。そこにほんとうに「連続性がある」のだろうか。「フーコーは何も言っていない」で済ませるべきか。フーコーは、「パノプティコンはあります」と主張しただけではない。

ヨーロッパでは宗教改革が近代化の端緒ともいえるが、そこで民衆はカトリックの教会支配から自由になった。18世紀、フランス革命で階級からも自由になった。19世紀、アメリカの奴隷は解放された。アメリカはイギリス支配から自由になった。20世紀、第二次大戦で日本やナチスのようなファシズム国家を退治した。黒人や女性の地位が上昇した。そんなわけで、フーコー以前の欧米人は「いまの俺たちって最高に自由だぜ」と考えていたはずである。

だから、学校や監獄、工場、病院といった諸装置、まさに自由で平等な近代社会の象徴ともいえるこれらの装置が、まさに統治の手段として機能していることを指摘したことはたいへん重要な意味があったと思う(それより前にアルチュセールが指摘していたが)。

だって私たちはふつう、学校に入ることは良いことだと考えているし、病院で治療を受けることは幸福なことだと考えているし、監獄は悪い奴を罰するところだと考えている。そこに統治の力が働いているなんて、言われてみなければわからない。

私は近代化の過程で権力構造がまるっと変わったというフーコーの主張はまったく正しいと思う。その転換は、日本の明治維新でもっともラディカルにあらわれている。明治維新によって数年のあいだに、精神医学が生まれ、義務制の学校が生まれ、自由刑の刑務所が生まれ、工場が生まれた。

これらはたんに江戸時代からの連続的な進歩とは言えず、システムとしての国家が新生した瞬間だった。だから私は、フーコーの理論はいまなお重要であり、とくに日本人が軽視しちゃーいかんと思うのだ。

ただ、大筋としては、山形の言うように
かれの持ち出す、物理的な規制と法的規制、規範的規制等々の相互依存関係という図式そのものは確かにとてもおもしろいし、示唆的だ。でもフーコーがそれを歴史的に実証したと思ってはいけない
これはまったく正しい。さす山、うまいまとめ。

フーコーの思想は、とても便利がいいと私は思っている。ぜひフーコーを「利用し、ねじまげて、キーキーいわせ」たいと思っている。

さいごに

キースという人は、 同ページの最後に書かれているが、次のような人物らしい。
最近、オーストラリア入植の各種資料を詳細に調べて、入植時に起こったとされる、アボリニジーの大虐殺なるものが実は起きていないようだという研究を発表して、歴史修正主義者だと罵倒されている

Keith Windschuttle


こういう人はいまいち信用ならないな~という感が強い。フーコー批判の論考も、読み返してみると、「ぼくはホモが嫌いです」「白人は立派な人です」という主張に過ぎないのではないか、という気になってしまう。

アボリジニの虐殺否定だって、「ぼくは白人が悪いことをしないと思います」という原動力なんじゃないの~と疑念が。その精神構造が私にはどうも理解できないが、どうもそういう人ってのは、一定数存在するらしい。

だいたい植民地のいたるところで虐殺を繰り返したイギリス人が、どうしてアボリジニだけを虐殺しないんだ。おなじ白人でキリスト教徒のアイルランド人だって虐殺したのに。

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