10.14.2017

苦しみの私有化について

 苦しみや苦悩の原因となる「恐怖」と「不安」について考えている。

おそらく近代以前の人びとは、「恐怖」することはあれど、「不安」を抱くことはなかったのではないかと私は考える。

フロイトは「制止、症状、不安」において、不安は漠然としており、対象を持たないこと、不安が対象を見いだしたときそれは恐怖になると述べている。ナントカ恐怖症という症状は、本来は漠然とした「不安」を土台として、なんらかの対象に形象化されているということである。



Eleanor Davis "How to Be Happy"


恐怖対象にあえて挑戦させ、慣れさせていく暴露療法は、恐怖体験によって生ずるPTSDには有効であっても、神経症であるナントカ恐怖症にはたいした成果をあげない(と記憶している)が、恐怖ばかりを対象としてその根本原因である不安に焦点をあてないからだろう。

フロイトの不安、恐怖の定義はハイデガーの定義と同じである。すなわち恐怖(Furrcht)は世界内の個々の現象や物から脅かされて逃げるときの情動であるが、それに対して不安(Angst)は現存在の根本情動とされ、なにか特定の事象や物に対して抱かれるものではない。

ハイデガーは不安のもつ役割というか機能を、「本来性の可能性の条件」としている。ハイデガーはほとんどの人は非本来的に生きているとしている。非本来的な生き方とは、「仕事やその他の関心事に気を取られ、自分がなぜ存在するのかを真剣には考えない」状態のことであり、世人(ダス・マン)の生き方である。この生き方から、本来的な生き方へと移行させるために不安はひとつの条件なのだとしている。

たしかに不安というものが、世俗的で習慣的な日常から、ひとびとを哲学や芸術、宗教といったある種高尚な領域に駆りたてるということは十分に理解できる(ただしハイデガーのいう「不安」は、死の不安と関連付けられることが多い)。

苦しみの自己責任化

ところで、私は「恐怖」ではなく「不安」が生まれたとき、苦しみの公共性が失われ、苦悩が個人に属する私的な所有物とされたのだと考えている。というのは、恐怖が対象化されているのであれば、不安はパブリックな性質を持つからである。

オオカミが怖いとか、抗争中の部族が怖いとか、子どもを失うことが怖いとか、暗闇の中の妖怪を、王様の権力を、ムチ打たれることを恐れるとき、恐怖の対象がはっきりと形を取っていることになる。多少文化の影響を受けるだろうが、だいたいこれは万人の共通の恐怖である。

「自由」「平等」といった理想のかかげられた現代では、こうした「恐怖」は巧妙に隠されてしまっているのだろう。

たとえば、ほとんどの労働者は自分の労働がどれほど搾取されているかを知らない。ソースはwikipedia(剰余価値率の項)なのだが、一説では現代日本の企業の搾取率は300%~400%とされている。これは、八時間働くうちの、自分の給料のために働く分はニ時間かそれ以下であることを意味する。(さらにそこから住民税や所得税などの税金が引かれる……ざっと計算すれば、五公五民ではなく、六資ニ公ニ民くらいか^^;)

普通に考えれば「労働はバカバカしい」となるのだが、勤勉が美徳とされ、支配的なエートスとなっている日本社会でそのことを自覚することは難しい。勤勉はすばらしい、仕事で自己実現しよう、反対に、失業者はみっともない、犯罪者、人間の恥だ……とされている。

しかし、搾取の自覚はなくても搾取がたしかに存在する以上、労働者は苦しめられることになる。ほとんどの場合、無意識のうちに。

この苦しみは人によっては耐えられるが(ハイデガーの言うように日々の雑務に追われることによって)、労働者としての生活に耐えられなくなる人も一定数生じることになる。彼らは恐怖の対象が見つからない。世の中は何も問題なく機能しているように思われる。しかし自明とされる世界には、漠然とした不安が確実に存在している。

不安が導くものが「マル経」や「プロ倫」、ハイデガーやフロイトのようないわば「高尚な知」であることは稀だろう。たいてい不安は、鬱病や神経症として処理される。彼は精神病院に行って診断され、薬をもらい、自宅療養し、うまくすれば元通り仕事に復帰できる(できてしまう)。そこでは炎症を起こした盲腸のように、不安や苦しみを切除することが期待される。

資本主義とは搾取が巧妙化された社会と考えることができる。自由や平等といった概念で、支配構造が隠蔽化されたのであり、権力は目に見えなくなったのである。奴隷制であれば主人が、封建制であれば領主が、江戸時代であれば藩主が権力を持っていたので、支配される人々は彼らを恐怖することができた。恐怖は支配に有利であるから、領主や藩主はときに暴力的に粛清した。しかしながら、恐怖による支配は支配者の存在を誇示する必要があるため(例えば支配者は「城」によって居場所を誇示している)、反逆者によく知り、うまく立ち回り、隙あらば脱走して権力から逃れたり、寝首をかいて下克上することを可能にするという側面がある。

現代では、支配構造はふつうの人には目に見えない。したがって恐怖すべき対象が見当たらない。説明不可能な「不安」は個人に内在化される。個人は不安を言明できずに、孤独に苦悩する。恐怖は公共的なものだが、不安は私的なものなのである。

TED動画の「鬱病を患うコメディアンの告白」で、「私が信じる世界とは誰かの目を見て 「地獄を体験している」と話したら 見つめ返して「私もだ」と言ってくれる世界」と言っていたが、苦痛が共有化されることの意義は大きいだろう。鬱病患者に「がんばれ」と声をかけることが禁忌なのは、苦痛を個人のものとして閉じ込めることであって、私的苦悩の檻に閉じ込めることを意味するからである。

痛みの所在

しかしこう問うこともできる。歯痛や頭痛はどうだ。個人に内在するものであって、「公共化」なんかできはしないのではないか。

私の考えでは、痛みの原因を自己に求めること、個人的な問題として私物化する慣習は、古代や中世には存在しなかったのだと思う。メソポタミア文明や、中国文明においては、虫歯の原因は虫であるとされていた(ソースはwikipedia「歯科医学」)。日本でも虫歯というくらいだから、同様に「虫」のせいにしたのである。

ちょっと逸れるが、日本人はなんでも虫のせいにしていた。

  • 虫が起きる→子どもが疳(かん)の強い状態になる。
  • 腹の虫の居所が悪い→機嫌が悪い。
  • 虫を殺す/摩る→怒りを抑えて我慢する
  • 虫唾が走る→不快である(胃の中にいる寄生虫が出す唾液と考えた「虫の唾」とする説と、寄生虫による酸っぱい液なので「虫の酸」とする説がある)
  • 虫が齧る→腹痛や陣痛

痛みや激情に対するこれらの「虫」の用法は、古代ギリシャの「ダイモーン(精霊)」とよく似ている。病気になったり、怒ったり、衝動的に盗みをはたらいたときでさえ、「ダイモーンが悪さをした」として説明がついたのである。

虫歯であれば、「私の歯の状態が悪い」のではなく「虫が悪さをしている」ということになる。つまり、痛みというものが「彼岸からやってくるもの」であって、自己に固有のものとか本来的なものではないと考えられていた。

歯痛の苦しみは本人でなければわからないとされるが、「虫」「精霊」といったように外化、対象化できるのであれば、痛みは共有化されうるのではないか。というのも、痛みの現象の元となるものは外化されており、したがって痛みの当事者と、その訴えを聞く人にも同様の対象として現れるからである。これは精神病を心や脳の病としてではなく狐憑きなどの物憑きとして捉えたことと同様である。このあたり、まるで実証的ではないので、もう少し調べなければ。

ともあれ、現代の私たちは虫歯の原因が細菌であることを知っているが、「細菌が悪いのだ」で片付けず、「歯磨きの方法が悪い」とか「砂糖のとりすぎ」「遺伝要因だ」というふうに、とにかく個人の責任として片付けている。ここでは苦悩は私物化され、外部から降りかかるものとして扱われないのである。

個人の苦しみから公共の苦しみへ

現代では「苦悩」は「個人の問題だ」とされている。個人が社会において苦しむのは、生活態度が悪い、性格が悪い、生まれや学歴が悪いからだ、というように自己責任として処理される。そこで苦悩は「私物」として扱われてしまう。鬱病や神経症では、不安は個人に内在する問題であるから、医師対患者の一対一の関係のなかで「無痛化」することが重要だと考えられている。

しかしながら、苦しみ、苦悩といった要素は、古代ギリシャやかつての日本においては「ダイモーン」や「虫」といった形で、外部からやってくるもの、ふりかかるものと考えられていた。

「公共的な恐怖」から「私的な不安」へと変わった原因として、資本主義社会の支配構造を例示したが、広く学校教育制度や医療制度といった近代国家的なシステムと関連付けることもできるだろう。苦しみが私物から公共物へと変革されるときに、大きな変化が起きるように思われる。このあたり、もう少し調べていきたい。


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