11.12.2017

私の兄が強制送還される

今日、父から連絡があった。

もう出ていってくれ」かと思ってひやひやしたが、以下の内容だった。

私の兄(次男)が、どうしようもないダメ人間になったと。
仕事を辞め、酒ばかり飲み、嫁に暴力をふるい……
兄嫁から父に助けを求める電話がきたようである。
で、兄を私の実家に強制送還するように、と……。
ようは、猛獣を引き取ってくれ、と頼まれたらしい。

強制送還の日はまだ先らしいが……。




私はそれをきいて、兄はアホだな~と思った。まあ、私の現状も似たようなものなのだが。

以前私と兄の関係を書いたことがある(今は記事を消した)から、覚えている人もいるかもしれないが、私の兄(次男)は私の言動をつねに否定し、力で押さえつけてきた、嫌なヤローである。ただ私より運動ができたし、ルックスが良かったので私は尊敬していたものである。一見、身内に暴力をふるうようなタイプではない、線の細い優男である。内気、無口で、礼儀正しい。それがDV夫になるとは。まあ、昔から内弁慶だったが。

ひとが仕事を辞めたときに、失業状態が人格を様変わりさせることがよくある。一日八時間ばかり、何事かにエネルギーを費やさなければ、人間は自分のエネルギーに耐えきれず、暴発してしまうものらしい。労働は正気を保つものであると、だれかが言っていたが。

酒はたしかに過剰なエネルギーを消耗させるのに良いものである。特に内向的な人間にとって、酒による肉体の消耗は、社交やアクティビティによって解消されないストレスを発散させてくれる。また、酩酊が凝り固まった精神をほぐしてくれる。


酒神は人びとを老いさせ、殺し、人びとの中にある精神の炎を消してしまう。
だが、酒神はまたその愛児たちをうたげに招き、彼らのために至福の島へにじの橋をかける。
彼らが疲れると、酒神は頭の下にまくらをあてがってくれ、
彼らが悲しみのとりことなると、友達のように、慰めの母のように、そっとやさしく抱きとってくれる。
酒神は、混乱した人生を大きな神話に変え、力強い竪琴で創造の歌をかなでてくれる。
(ヘルマン・ヘッセ「郷愁」高橋健二訳)


しかし、何かしらの営みをしなければ酒では追いつかない。散歩するとか、本を読むとか、瞑想するとか、さ。酒だけでエネルギーを消耗させるとすれば、朝からずっと飲み続けなければならないのであって、朝から飲む人間は明白にアル中である。

世の中の大多数のニートが、精神的に不安定になることは驚きである。悩ましい上司はいない、退屈な仕事はない、好きな時間に起きられる、自分が自分の主人になれる……。世間のなかで煩わされることを考えたら、ニートの生活の方がだいぶ満足できるものである。

もっとも、ニートの置かれた境遇は、サルの群れでいうところの最下層である。今、京大の山極センセーのゴリラの本を読んでいるのだが、それによれば、サルの集団は、ヒエラルキーの上の方から攻撃を受けると、さらに弱いものに攻撃を向けるようである。

現実的に、ニートが攻撃を受けていることは事実である。仕事をしていないというだけで、疎外される、白い目で見られる、人間扱いされない、ということは、少なからず感じることである(私も毎日図書館へ通ったので、珍獣のような扱いを受けた)。

だから、ニートたちはたいてい自分の自由な時間を楽しむよりも、ずっとその生活から逃げだそうとするのである。ひとが「仕事をしていないから自分はダメなんだ」と思うから、孤立感、無力感にさいなまれるということは容易に想像がつく。

ニートは現代における最下層の被差別民である。しかし歴史上、貧しい被差別民こそもっとも大きな自由を謳歌してきたともいえる。このことは網野善彦の無縁論にあらわれている。またアシジのフランチェスコは莫大な財産を抛ち、遍歴する托鉢僧となったが、これも同じ理由だろう。ちなみに、托鉢僧とは、ようは乞食で――乞食もまた仏教用語であるが、乞食は中世日本では非人であり、被差別民である。

そんなわけで、ニートという立場に肯定的な価値を持つことは可能であるし、決して幻想ではない。私もまた、学生や大学教員よりも効率よく知識を得ることができているのではないかと思い、今の生活にある程度満足している。でも大学教授になりたかったな~とは思う。内田樹みたいにぶいぶいいわしたかった……。

「働く」ということが絶対的な教条となると、「働かない」ということが、恐ろしいペナルティとなる。

しかし、労働が教条化されるようになったのは、実に近代以降のことであることは、多少とも思想や歴史を勉強した者には明白である。そのもの「近代の労働観」という今村仁司センセーの本では、「労働に喜びはない」と断言している。まったく身も蓋もない……。私たちが労働の喜びだと思っているものは、仲間内の競争や連帯における相互承認であったり、割のいい賃金や知識を得られるといった労働の副次的な要素である。労働そのものには喜びなどない、ということである。

このように、労働それ自体には喜びがないのだが、ニートであることは、被差別民である。この屈辱に、大抵のニートは耐えられない。兄も働いているうちはまともだったのだろうと考える。だから、兄のような人間はさっさと就職した方がいい。しかし三十路ニートに、就職は可能かわからないが……。


労働に関しては、今、長ーい文章を書こうと考えている。今、いろいろと書いていて、殺人論と、アウトサイダー論とを、並行させている。

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