11.18.2017

金持つ人が偉いのか

現代社会は金を持ってる人が偉い。

特に日本ではその傾向が大きいように思われる。「経済的成長」が、国政の第一のテーマとなっている。日経平均株価の上下に一喜一憂する。私たちは楽天の三木谷やソフトバンクの孫といった億万長者の一挙一動に注視している。成功した経営者たちの本がビジネス書として無数に出版されて、成功とは無縁の人びとがそれをありがたがって買う。女性たちは、年収を何よりも重視する。年収200万円の男などまっぴらごめんだ、と思っている。

このような社会が現代社会であることにだれが異論を唱えようか。


ヴェブレンの「有閑階級の理論」というゆーめーな本がある。一〇〇年以上前に書かれたこの本が、現代でどれだけ実証的な意味をもつかはわからないが、ヴェブレンによれば「有閑階級」が人類史上はじめて生まれたのは、「司祭と戦士」であるという。

どんな未開の部族でも、戦争と宗教は必須だった。原初では、祭事と戦争は共同体全員で行われた。しかし、次第に武具の発達で戦争が高度となり、また宗教の複雑化による密教化がなされると、しだいに宗教者と戦士が分業化される。

これが人類史ではじめて、「働かずに食う者」の誕生であった。戦士や宗教者いずれも素質のない男、あるいは女性や子供は、家内工業や木の実拾いを行った。そのような行為は、低俗であり、下卑ており、不浄であるとされたから、戦士や宗教者は行わなかった。戦士は日常においては、狩りにあたったと思われる。宗教者は儀式の他、病者の治療などをしていたのではないか。

このような社会では間違っても、「貨幣をより多く貯えた者」が偉かったのではない。というか、貨幣がなかった。ということは、富を隠して貯えることは不可能だし、また保存が効かなかった。そういう貨幣以前の社会では、蓄財よりも気前の良さが尊ばれるのである。

この「戦士と宗教者」のモデルは、古今東西、資本主義以前までは不変であった。よくよく考えてみればわかるだろうが、ヨーロッパでの国王は軍力の長であり、ローマ法王は宗教者である。日本での将軍―天皇の関係も同様である。

したがって、資本主義以前は「宗教者―戦士」いわば、知性と武勇に優れた人間が尊ばれたのである。

それでは現代でいう、三木谷社長のような商人はどうだったかといえば、古代ローマでは奴隷だっただろう。また、中世においては被差別民、江戸時代では商人であり、身分的には農民より下の下層民であった。商売は伝統的に、賤しいものであるとされた。武勇とも霊性とも無縁だからである。キリスト教やイスラム教においては、銀行業が倫理的に悪だとされていた(旧約聖書「兄弟に利息を取って貸してはならない」)。したがって同教圏ではユダヤ人が大儲けすることとなった。しかし、現代では金貸しこそもっとも効率の良い職業である、三木谷や孫以前の時代には消費者金融の社長が長者番付に名を連ねたことを覚えている人もいるだろう。

また、貧者の扱いも現代とは異なる。現代では、貧乏人、低収入者は無能扱いされる。努力が足りない、失敗者、負け犬、といったように扱われる。日本人は特に貧乏人に対して辛辣で、怠け者に補助など無用として生活保護に対する批判が起きることがある。

いつの時代にも貧者は存在したが、貧者を悪と考えることもまた、近代以前にはなかったことだろう。近世までのヨーロッパでは、貧者に対する施しこそが霊の救いへのもっとも有効な近道だった。なので、遺産を貧者に分配するように、と遺書に書かれることが通例だった。修道院は浮浪者を積極に保護した。貴族が外出するときには、乞食が群がってくるために財布がすっからかんになったという。キリスト教は、病めるもの、貧しいものこそが救われると説いた宗教であった。

また日本の仏教でも、貧者は肯定的に描かれた。仏僧とは貧者そのものである。彼らは基本的に無所有で、民衆から食事を乞い、ときに断食をする。これらの性質は、貧者もまた自然に持っているものである。乞食は被差別民であるが、同時に村々の民間宗教で畏敬をもって扱われた。たとえば特定の祭の日には、神に扮して村々を訪れ、家々をまわり食事を振る舞ってもらう乞食者もある。

上記のように必ずしも貧者がダメ人間と思われたわけではない。むしろ近代以前のあらゆる時代において、「強欲」こそが罪だとされた。ダンテの「神曲」では強欲者は地獄行き。「吝嗇と浪費の悪徳を積んだ者が、重い金貨の袋を転がしつつ互いに罵る」とされる。仏教では三毒・十悪にて貪欲が戒められている。

Gustave Doré - Dante, Divina commedia - Inferno (1861) 



しかし現代の富裕層や経済的な成功者が「強欲」だとは必ずしもいえないだろう。彼らはかつての倫理規範においては武功を求めあるいは宗教的な真実を求めたかもしれない。現代のような資本主義社会では、だれもかれもが金銭を求めるように強いられている。それこそが唯一の倫理規範なのである。ヴェブレンは消費とはいわば「他人への見せびらかし」であるとしたが、現代では「権力への意志」はすなわち「富への意志」となる。

人間は多くの動物同様、競争心を持つ。「あいつより偉くなりたい」という心理こそ文明の駆動力であった。それが現代は、金を持つことが偉いとされる。ほとんどの人は、自分がなぜ富を求めるのかわからないまま、富を求めている。必然的に富へと駆りたてられる。肉体的な力強さや思慮深さはもはや美徳と見なされない。ただ資産の額面のみがヒエラルキーを決定するのである。

そんなわけで、私たちは金を稼ぐ存在として生まれ、金を稼ぐ存在となるよう期待されて大人になる。それ以外はとくに期待されていないのである。働かないことは悪徳であり、働くことではじめて善良な市民という扱いを受ける。そここそが境界である。ブルジョアはもっと稼ぎたまえ。プロレタリアートは働きたまえ。資本の命令することはそれだけである。そしてこのシステムにほとんどの人間が組み込まれている。よき歯車になれないという理由で引きこもったり自殺を試みるものは病気として治療される。あるいはくいつめて刑務所にぶちこまれる。かつての戦士は暴力犯となりかつての司祭は精神病者となった。それが現代ではないかな。つまり「あらゆる価値の転倒」。



有閑階級の理論

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