11.02.2017

いじめと自殺について


拙論「自殺とはなんぞや論」において、以下のように記述した。
いじめられる子どもが自殺するのはなぜなのだろうか。「いじめ」はふつう学校内に限られているのだから、転校や登校拒否によって解決しうる。いじめられただけで自殺するのは非合理的である。
これはあてずっぽうではなくて、事実いじめられて自殺する子どもは例外的であり、よほどのレアケースなのである。



Matt Mahurin - Bullying





警察庁資料(2007~2013年)の中高生の自殺統計によれば、年間のいじめの自殺は2~4人程度に収まっている

一方で、家族関係による自殺は毎年30~40人。健康問題(大部分は鬱病だろう)は60人から70人。学業不振による自殺も20~40人。進路の悩みによる自殺は、30~50人(かなり大雑把なまとめである)。

この数字は鵜呑みにはできない。「その他学友との不和」による自殺が毎年10~20人程度生じている。これはいじめが原因ではないのか、と考えることも可能である。警察がいじめをどのように認定しているのか、詳細はわからない。また、いじめの結果鬱病になった子どもが一定数存在すると思われる。

上記のような疑問があるものの、「いじめによる自殺はセンセーショナルである一方、必ずしも多くない」ということがいえると思う。

こういう言い方は語弊があるかもしれないが、上の数字からは「子どもたちはいじめよりも学業や進路に悩んでいる」と言えるのであって、いじめ問題を取り沙汰する一方、過酷な受験競争に寛容であることはいささかバランスを欠いている。

いじめ自殺の少ないことの背景としては、やはりいじめ問題は解決が簡単だからではないか。子どもにとって家族は離れられないが、学校から離れることは容易である。ただ、両親が多くは恥や外聞によって「学校へ行け」と強要するような場合、子どもは逃げ場を失うだろう。

自殺しやすい子ども、自殺しない子ども


いじめられた程度では、子どもは簡単には自殺しない。

とするならば、なんで一部の子どもは自殺するのか。

私は多かれ少なかれ、家族構造のいびつさがあったと思う。さらに本人の先天的な精神的性質が原因だったと考える必要があると思う。

こう書くと「いじめっこがすべて悪い」という思潮のある昨今では大バッシングを受けそうなのだけど、現にそうである。

家族関係が良好であればいじめは乗りこえられる。親が子どもの状態をよく観察し、子供が気軽に相談できるような関係であれば、いじめに気づくことができるだろう。つぎには学校への訴えなどの手段をとることができる。いずれにせよ、最終的には子どもを学校へ行かせないとか、転校させるという手段があるのだから、死に至るまで追い詰めるケースは考えにくい。

いじめで自殺した子どもの両親が、上のようなことがまったく問われないのは、不思議なことである。もっとも、子を失った上に批難するのは酷としか言いようがないが……。

また、本人の精神的なタフネス(鈍感さともいう)があれば、自殺はしない。子どもはタブラ・ラサ(白紙)ではない。赤ん坊にも攻撃性や臆病さの性格があるように、生まれつきの遺伝的性質がある。自殺傾向のある子ども、ない子どもがある。

私は自殺する子どもの遺書を調べたことがあるが、優れた文章表現能力に驚かされることが何度もあった。感受性が高いことは、芸術などの創造力を高める一方で、生きづらさのようなものを伴うことは、古くから指摘されていることである。

鬱病は平均6回程度再発を繰りかえすと言われるが、苦悩の多い人生は、あるていど生まれつきで決まっているとも考えられる。

だから自殺を容認しろ、と言っているのではない。自殺には本人の生まれつきの性質が条件となることを指摘したいのである。自殺はそれに至るエピソードだけでは説明できないことが多い。同じ状況であっても、耐える人間と耐えられない人間がいる。いじめによる自殺は、ある程度本人の素因によるのである。

いじめは視聴率が稼げる

なぜいじめばかりがテレビで取り沙汰されるのかといえば、それが国民全体の関心を呼ぶからである。皆教育制度によって、みなが学校制度を経ている。そのなかで私たちは、いじめという現象を多かれ少なかれ心に刻みこまれている。直接関わることがあれば、傍観によって関わることがある。大人社会もまた、いじめとは無縁ではない。

そんなわけで、ひとたび「いじめ自殺」が起きると、国中が大騒ぎするのである。マスコミは視聴率を稼げるから、徹底的に学校問題を追求する。だいたい、わかりやすい「悪者」が存在するから、これを叩けばだれもがカタルシスを覚える。教育評論家が、しょうもない解決方法を提示して締めくくる。安っぽい消費行動である。

この過剰な報道によって「いじめ=自殺」という関連付けが子どもたちに生じることは懸念しなければならない。統計に見たように、いじめられた子どもが自殺することは例外的である。いじめと自殺の関係を安易に結びつけることは、さらなる自殺者を生むことにもなりかねない。「ウェルテル効果」や藤村操の後追い自殺のように、自殺にはたぶんにマスコミの影響があることを忘れてはなるまい。

いじめは必然である


実はわたしはいじめに関する本を書こうと思ったことがある。社会学者や教育学者の書くいじめ関連の書籍がダメダメで、自分でもっとましな「いじめ論」を書こうと思ったのだ。しかしこれは数日とりくんで頓挫した。理由としては、結局のところ、学校や会社という装置を解体して構造を明らかにすることをしないと、木を見て森を見ずになるからである。「いじめ論は(単体では)成りたたない」と気づいてしまった。

いじめは社会構造から必然的に起こる。「社会構造のひずみ」というよりは、社会構造そのものから起きる。この点は内藤朝雄の結論と同じなのだが、学級に子どもたちを年間千時間もすし詰めにしていれば、当然いじめは起こりうる。バケツにメダカとザリガニを一緒くたに入れるようなものである。

したがっていじめっこ、いじめられっこ、傍観者が、親が、教師が、という観点からは語ることができない。メディアや大衆の視点はつねにこの範疇にとどまってしまうのだが。

学級制度を維持する限り、いじめはなくしようがない。だから、「なぜいじめが発生するのか」と問うことや、「いじめは良くない」と叫ぶことは有効ではない。

それよりも、「どうやっていじめによる被害を少なくするか」「どうやっていじめられっ子を保護するか」という技術的な視点から考える必要がある。この思考作業こそ必要であるように思われる。


おわりに:神経質は死なない


ちなみに、私自身は、いじめられたこともいじめたこともある。だが、辛辣にいじめられたときも死にたいとは考えなかった。私はどちらかといえば(いやかなり)神経が鋭敏な方で、神経症になるほどだが、神経症になる人間は巧みに自殺願望を回避すると言われている。この性質はまったく生まれつきのものだと思う。

一方で、上司が自殺未遂をしたり、学友がひどい鬱病で引きこもるということを経験した。前者は過労によるものだったが、一種のいじめとも言えた。そのとき、鬱病のメンタリティと神経症のメンタリティはずいぶん違う、ということを実感したのだった。

神経症がいいとか、鬱病より優れているというのではない。ぶっちゃけ、鬱病の方がうらやましいことがある。彼らは人生の浮き沈みが多いけれど、それだけ人生の悦びを感じている。神経症はじわじわと常に苛まれているようなもので、やりきれない気分になることがある。

神経症にせよ、鬱病にせよ、ひとのだいぶぶんの性質は生まれつき決まっている。フロイトの精神分析以来、自殺や精神的異常をなんらかのエピソードに求める傾向があるが、遺伝的傾向の方が強いように思われる。もちろんデュルケムの指摘したように、文化的社会的な影響がある程度左右するだろう。しかし自殺するような人は、平時から危うさや脆さといったものを感じるものだ。


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