11.10.2017

人間の凶暴さと超自我

「超自我」とは、フロイトに言わせれば「良心」になるが、ときに主体を殺すこともある危険なものである。
精神分析の用語。パーソナリティを構成する3つの精神機能の一つ。快楽追求的なイド (エス) と対立して道徳的禁止的役割をになうもの。5~6歳頃,両親の懲罰が内在化して,みずから自分を禁止するようになることと,その後の両親その他の価値観への同一視を通じて形成される。良心に近いがより無意識的に働くとされる。(ブリタニカ百科事典 小項目事典「超自我」)
たとえば鬱病は超自我の肥大化による自我・エスの支配という形で説明することができる。自殺もまた超自我の働きが大きい。

現代の日本は、殺人と、自殺の比率が1:100くらいなのである。このことは、日本人の超自我が極めて発達している、と推察することができる。日本人の習性である「列に並ぶ」とか、「時間を守る」といった規範も超自我のなす業である。




一方で「自殺論」にも書いたけど、この超自我が歴史的に普遍的なものか問うことは必要であると思う。フロイトは父―母―子のリビドー的な関係性によって超自我が育まれるとした。

しかし現代では病院、学校、監獄、病院といった国家装置による影響の方が大きいと感じられる。フーコーの「ディシプリン」、ウェーバーの「エートス」のようなモデルは、ひとびとの肥大化した超自我を改めて指摘したものだろう。

以下の文章は、蚊居肢の元サイト(Les yeux clos)で発見したのだが、これは引用元がわからない。蚊居肢さん本人かもわからない。
<人間>とは、王や<神>に従う臣下ではなく、自分で自分を監視し、自分で自分に命令するような、カント流の「先験的―経験的二重体」としての主体。その変奏は、フーコーの、パノプティコンをはじめ、フロイトのエディプス化の結果として、父権的な審級を自分の中に内面化した主体であるとか、ウェーバー的な自己に責任をもつ主体など。つまりなんらかの「抑圧装置」を内面化した主体、あるいは「対象としての自己」をコントロールする主体、ということが<人間>ということ
この文章からすると、自我の分裂、超自我を持ちうる者がすなわち人間である、ということになる。

超自我は前頭葉の機能だという仮説があって、前頭葉の異常に発達した人間だけに超自我が存在することに説得性がある。だから人間だけが超自我を持ち、そして人間だけに自殺は可能なのだ、となるのか。

ユートピアは存在するか

一方で超自我を持たない人間もあるのではないかと疑問を持つ。超自我はある集団内であれば必ず生じるものなのだろうか。

文明による禁止のない世界をフロイトは次のように描く。
いま仮に文明による禁止が解かれ、気に入った女は手あたりしだいに自分の性欲の対象にしてよい、恋敵をはじめ、自分の邪魔になる人間は躊躇することなく殺してよい、所有者の許可を得ることなく他人の物を奪ってもよい、ということになったとする。そうなったら、なんと素晴らしいだろう。人生は満足の連続になるだろう(「ある幻想の未来」)
これはもちろんフロイト流の皮肉なのだけど、ほんとうにこのような「万人の闘争」が可能なのだろうか。

このことを反証する例として、一般的に、動物の群れ集団が(通常、人間社会よりも)秩序だっていることがあげられる。動物たちは超自我があるから秩序を維持できているのではない。ほとんど本能=エスだけのはたらきで安定した社会を構築している。

多くのユートピア論では、人間は原初の時代は(動物たちのように)平和に生きられていたとする。端的な例がエンゲルスやマルクス、ヴントであるが、この源流はおそらくルソーにあるだろう。ルソーの「エミール」で描かれた子ども観、また「人間不平等起源論」で描かれた自然人像は、当時革新的なものであったが、現代でもその影響は大きい。

縄文人は和睦的に暮らしていたとする人がいる。弥生人がやってきて、戦争を持ち込んだという。戦争が起きなかった可能性はあるが、縄文時代もある程度殺害が起きていたようである(人骨の1.8%は殺された遺体だったという)。

きわめて平和的とされる縄文時代でも殺人が起きていたことを考えると、人間は動物たちのようになれないということが言えるのではないかな。ユートピアは存在しない。やはり人間は人間であって、他の動物とは異なるということか。

人間は異常な動物のようである。たぶん、人間はチンパンジーと同じように、「同族殺し」を運命づけられた生き物なのだろう。このことは人類の歴史の歩みによって自ずと実証されるし、聖書におけるアダムとイブの息子が殺人者であることは象徴的である。


ルーベンス「アベルを殺すカイン」

攻撃性と共同体

共同体がある以上、超自我が必要なのだと思われる。超自我がなくなったなら、フロイトの言うような状態になるかもしれない。人間は私たちが考えるよりずっと、凶暴ないきものなのではないか。同族殺しが可能である、言ってしまえば極めて高い攻撃性を持つ人間であるがゆえに、自己が自己を監視するようなシステムが必要だったのだろう。

そして超自我はまた、極めて未熟な状態で生まれる人間だからこそ、発達しえたのだと言える。もしも人間が生まれて数日で自ら食事をとり、歩けるようになったとすれば、超自我が植えつけられる期間がない。人間の幼児の脆弱さが、凶暴さを調教訓育する上で有効だということである。このことは、エミール的な子ども観を持つ人には理解しがたいだろうけど。

近代国家では子ども期間はそうとう延長される。だいたい20歳まで「未熟」だとされ、そこで超自我を確実に定着させる操作が行われる。たいていは学校という装置によってであるし、補助的にマスコミなどの中央集権的なメディアがはたらきかける。

これらの装置によって、「殺さず、自殺する現代人」ができあがるというわけ。向社会的な、逸脱しない立派な日本人。

まとめ

ちょっと話がぶれたが、全体の結論としては以下のようになる。

人間は極めて攻撃的な生き物である。
しかし一個体では生きていけない存在である。
そこで、共同性を維持するために超自我が発達した。
超自我は近代化によってさらに肥大化されている。

これ、おもしろくないかな~。

人間の高い攻撃性が、人間の高い自制心や文化を生んだという。

高い知能は、集団内のコンフリクトの結果ではないのか。
人間は凶暴な生き物だったから、共同体の維持がとてもムツカシイ。だからコミュニケーション能力としての言語が発達した、とか……。

まあ「人間凶暴説」によっていろいろ考えられる。



ちなみに私は最近まで、ルソーのような自然人像、縄文ユートピアを信じていた。人間は基本的に善として生まれるのだと。

しかし最近「殺人」をテーマに調べるなかで、人間には種としての攻撃本能があることが否定できなくなった。一皮むけた気分である。

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