11.06.2017

「解釈だけが存在する」とはどういうことか

ニーチェの言葉「事実というものは存在しない。解釈だけが存在する。」とはどういうことですか?僕が仮に人を殺したら、僕が人を殺したという事実が存在すると思うのですが
という質問を見つけた。

 ニーチェがそんなこと言ってたか?という気もするが……


言いそうではある。




私が答えるとすれば。



これは簡単に否定できます。

たとえばあなたが「私が殺した」と言っても、周りはそう解釈しないことがある。

  • 教育評論家「親の教育が悪かった。親が殺したようなものだ」
  • 社会学者「犯人は残酷描写のゲームに熱中していた。ゲームが殺した」
  • 評論家「警察が犯罪を防止できなかった。警察が殺した」
  • 反戦論者「戦争で善人も人を殺す世の中だ。戦争が殺した」
  • 神父「彼には悪魔が乗り移ったのだ。サタンが殺した」

といったように、殺人一つにも多様な解釈ができます。

「私が殺したのだ」という「事実」も、
実はひとつの解釈に過ぎないということです。

しかしあなたは当然次のように反論するでしょう。

「私が殺したことは、紛れのない事実である。明白な殺意をもって、私を振った憎いあの女を、ナイフで殺したのである。そこには親の教育や貧困、警察や戦争の入り込む余地はない。私が自分の意志で殺したのだ。悪魔が私を操って殺させたとしても、私の腕、私の手は、ナイフが肉を割く感触を覚えている。少なくとも、私のこの手が殺害したことは明白な事実だ」

と。

しかし、ここで神父が「そのときあなたはあなただったのではない。あなたは悪魔に乗っ取られていたのだから。あなたの手は、そのとき悪魔の手だったのだ。」

と反論することも可能です。

私にとって、神父とはこの人。
「タクティクスオウガ」より。
肉体や意志が自分のものであるとする、その考え方もひとつの「解釈」なのです。
ということで、「僕が人を殺したという事実」は解釈に過ぎないことが証明されました。

おしまい。


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