12.12.2017

日本人がニーチェを好む理由

久しぶりに小浜逸郎の「13人の誤解された思想家」という本を開いた。

それを読んで、日本人は幻想の中にいるから哲学なんて無理だな、と私は残念な気持ちになった。そのようなことを小浜が書いているのではない。小浜が幻想の中にいるのである。




小浜は自身がニーチェに熱狂し、また多くの日本人がニーチェを好むことをあげながら、その理由がわからないとする。

 問題は、なぜ彼が、ヨーロッパやプラトニズムやキリスト教によって2000年もの長い間ペテンにかけられていたとあれほど激しく告発し続けたか、その生々しい声の由来をよく見極めることです。そしてその際に重要なことは、この生々しさが、じつは私たち日本人にとっては、さほど文化的・心理的なリアリティを感じられないはずのものだという事実を念頭に置くことです。
 ところがおかしなことに、哲学好きの日本人読者の間ではニーチェが一番人気なんですね。若気の至りとしての「いかれ」からある程度自由になって以後、私はこのことが不思議に思われるようになりました。
 というのは、微温的で「八百万の神々」に親しみ「和」の精神を尊ぶこの国で、しかも敗戦によってかつてなく戦闘精神を去勢された「民主主義」の時代に、それとまったく反対と言ってもよいこの思想家になぜこんなに人気が集まるのかがわからなくなったからです。
この文章は、ふたつの問題を孕んでいる。

  • 日本人は西洋ヨーロッパのようにペテンにかけられたことがないのか。
  • 日本は本当に「微温的で「八百万の神々」に親しみ「和」の精神を尊ぶ国」なのか。

第一は、戦中の天皇制が象徴的である。しかしそれだけではない。奴隷道徳は今なお存在する。
第二は、本当に多くの日本人が抱いている幻想だ。日本人が八百万の神々に親しんだことは事実かもしれないが、「微温的で和の精神を尊ぶ国」ということを小浜は無批判に受け入れている。

実はこの二つの問題は、一つの問題に集約できるのだが、それは後述する。

小浜は以下のように続ける。
 ニーチェ人気の秘密はつまるところ、ちょうど青年期の私がそうであったように、「凡俗な大衆」への違和感を抱えて孤高を気取りたがる知的青年のアイデンティティ形成に、彼の思想が恰好な役割を提供してくれるところにあるということです。
とし、
 日本人の一般的なエートスやメンタリティにとって、どう考えてもニーチェの矯激さは似つかわしくありません。
と結論付ける。

ここでも「日本人の趣味には合わない」ということが無批判に記述されている。たしかにニーチェに好意を持つ読者に斜めに構えた中二病が多いことは否定しない。だがそれだけではない。

どういうことか。小浜が盲目的に受けいれている「微温的な、和を尊重する日本人」こそが、ニーチェの糾弾した「奴隷」に他ならないのである。そして「和を尊重する日本人」という思想は、キリスト教と同じ性質を持つ奴隷道徳なのである。

皮肉だが、ニーチェがなぜ好まれるかわからないとする小浜の意見が、まさにニーチェがなぜ好まれるかを説明してしまっている。

さきほどの問題に戻ろう。

  • 日本人は西洋ヨーロッパのようにペテンにかけられたことがないのか。
  • 日本は本当に「微温的で「八百万の神々」に親しみ「和」の精神を尊ぶ国」なのか。

この二つは、一つの文章によって解決できる。

「微温的で「八百万の神々」に親しみ「和」の精神を尊ぶ国」というペテンが存在するから、日本人は「文化的・心理的なリアリティ」をもってニーチェに共鳴できるのである。

日本人は特別な民族だ、和の伝統を持つ民族だ。そういった迷妄を無批判に受けいれている思想家は本当に多い。いまだに戦後氾濫した「日本人論」を超越できていない。

日本のほとんどの哲学者に哲学が不可能なのは、幻想や迷妄のなかにいるからであると私は思う。


関連画像
ところで、 有名な「女のところへ行くなら、鞭を忘れなさるな!」とは
実は男が鞭打ってもらうためである。たぶん。


※読者の中には、「和を尊ぶ日本人」のどこが奴隷的なのかわからない人がいるかもしれない。……が、ちょっと考えればわかることなので、あえて記述はしない。

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