1.01.2018

二〇一七は実り多き年だった

2017は、レッキとした素数であって、優しくまるいイメージの2016と違い、何か棘を感じる。2016という数字は、素因数分解すると 2 * 2 * 2 * 2 * 2 * 3 * 3 * 7であり、いかようにもぐにゃぐにゃいじれる融通を感じるのだ。

来年は2018年。一見口あたりが良さそうだが、その半分は1009であって、これも素数。二面性を感じるというか、煮え切らない、好きになれない数字だ。



2017年のおもひで

さて2017年はどうだったかと言えば、満足のいく一年であったと思う。ニートになるという決断は良かった。私がニートでいる間に吸収した知識が、もし職を続けていれば得られなかったと思うと、これは辞めて大正解と言う他ない。知識で金を得ることはできるが、金で知識が買えるものではない。労働は本質的に、自己を譲り渡すこと、したがって自己を希薄化させる危険を孕んでいることを、身をもって知ったことになる。

しかしニートとして生活し、豊富な時間を手にしたのだが、本を書くことには成功していない。私は最近、本を書くことに意義を見出せていないのが正直なところである。なぜか。本を書くのであればそれを売らなければいけないのであるが、売るためには本の質を落とさなければいけない。私は消費者に向けてではなく、真の読者に向けて書きたいのだが、それではせいぜい100人程度を相手に商売することになるだろう。

このブログ、Nosce Te Ipsumの他に「齟齬」というブログを立ち上げて、そちらの方は少しずつ読者が増えている。「齟齬」は毎日更新しているが、執筆は知力というより体力のいることで、本家であるこちらの更新が疎かになってしまっている。愛着は断然こちらの方があるのだが。

長く文章家として生きていくことが目標だったが、書物の出版がなくとも、私は今後も自分の考えを発信し続けるだろう。むしろそれが正しい在り方なのかもしれないとも考える。私は貧乏で構わないし、本を読み、文章を書くというふたつの基軸が自由にできれば、それで良いと考える。無論金持ちになれればそれは嬉しいし、できればそうありたいが。

来年の目標

さて明日から365日間の2018年であるが、まず目標というよりも「必要」として、就職することを考えている。これはひとつに実家にいつづけることの風当たりがあまりに強くなってきたからである。大学を出たのにニートとしてぶらぶらしているのだから当然かもしれないが、家族はそれを好ましく思わないらしい。私の知的営みが、賃金労働をこなすよりもどれだけ「実利的」であるかを教えてあげたいものだが、まあ現状一円にもなってないのだから無理解も当然といえる。

そういうことで実家から離れなければならない。当面の金が必要であり、嫌で嫌で仕方ない賃金労働者に戻るかもしれない。まだ貯金はアホくさいほどあるのだが、金が徐々に減っていくようなジリ貧生活は想像するに苦しい。私は賃金労働は魂を奪うものとして憎んでいるが、金が減っていくことも恐ろしい。理不尽な苦難も多少は魂に必要かもしれぬ。この点私はエピクロス派ではない。とにかく、来年は仕事探しをしてみようと思う。

以上は生活の必要なのだが、さて目標は何であるか。これまで本を書くことが目標だったが、それはゴールではない。やはり今以上に知識、知識、知識をみにつけることを目標としたい。知的洗練こそ私の第一目標である。本を売って稼ぐこと、文章家という肩書を得ることは、それと比べれば二次的なことだ。

来年は言語を身につける。まずは英語をさっさとマスターしてしまいたい。それと並行し、第三言語を学習したい。徐々に日本語の書物から洋書へとシフトしていきたいと思っている。翻訳書はもう、十分読んだ。語学の学習、知的鍛錬を2018年の目標とする。




毎年、年越しは妙な儀式をしているのだが、今日はツァラトゥストラ(ゾロアスター)にあやかって焚き火をしながら年を越すことにした。


ツァラトゥストラのイキフン(雰囲気)を楽しむためにわざわざ山に登った。満月。年越しの瞬間には、下界で花火がぽんぽこあがるのを楽しむことができた。案外車の運転をしながら年を越す人もいるのだと知る。

雲の動きが早い。風がびゅうびゅう吹くので空を見上げると、人の形をした雲がさああとやってきたように思えた。いやあ、いいものを見た。私のご先祖様かもしれぬ。

このあと、無駄にテンションがあがってバイクでウィリーしていたら、スマホを落として液晶がお陀仏してしまった笑 コケないだけましか。

ともあれ、すでに年を跨いでしまったが。2018年を有意義に過ごそうと思う。

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